王の【狗】 29
白刃には何が起こったのか、わからなかった。
ただオーディンが右手をかざした瞬間、リスティーが結界を張る間もなく炎の玉が彼女を直撃したことだけだ。
誰が、誰を殺すのだろうか。
誰が誰を憎んでいるのだろうか。
「……オーディン?」
白刃の小さな声に答えるように、ちらりと向けられた目。
それは昼から夜に変わる空の境界の色。
夜が明ける前の紫紺。
一瞬だけ交わした視線と揺るがないそれに大丈夫だと思ったとき。
「いきなりは酷いわね。それにしても≪術≫を使うなんて。…そんなに聞かれたくないの?」
「よくしゃべる奴だな」
「あら。だって、あなたみたいにいい男なんてそうそういないもの。嬉しくってついね」
「それは光栄だな」
煙の向こうから現れたリスティーは、脚や腕にやけどを負っているものの先ほどから変わらない笑みを浮かべて、オーディンを見下ろしている。
一方、白刃は二人の会話に目を丸くしていた。もっとも彼女はそうかオーディンていい男の部類に入ったんだなていうかあのおばさん傷、痛そうと思っていたのだが。
「残念ね。できればあなたは殺したくないのだけど」
「そうか。でも、これを殺させるわけにはいかないんでな」
これ呼ばわりされても白刃はオーディンとリスティーの間に流れている空気に口を挟めない。
リスティーが憂いを感じさせるような仕草で目を伏せる。
「そう。残念だわ」
その緑の目がついと白刃へと向く。
「じゃあ、あなたから消えてもらいましょう。さようなら。≪祝福の姫君≫」
「え?」
白刃が疑問に思った瞬間。
視界ががくんと揺れ、オーディンが手を伸ばすのが見える。
その後ろには嫣然と恍惚の笑みを浮かべた女。
体を包む熱は。引き寄せる強い腕は。
―――・……て…―――
声が、聞こえた。
***
「おいおいおい」
「これは一体どういうことですか!?」
アルザスは顔を引きつらせ、屋敷の近くまで来ていた騎士たちを率いている大将が憤怒の感情を隠さず顔に露にして彼を見ている。
彼らの目線の先にある廃墟と化した屋敷は玄関ホールの天井が倒壊し、先ほど大きな爆発音が響き、今にも全体が崩れ落ちそうだ。
ここで身内の争いを起こしているわけにはいかないのだが、大将はどうやら自分の手柄が気になるらしい。オーディンが先に屋敷に忍び込んだということも彼を怒らせている原因だろう。
面倒なやつだなとアルザスは胸中で呟く。
大将であるこの男が顕示欲や権力にたいする執着が強いというのは他の間諜から聞いていたのだが、最終的な打ち合わせのときにも自分の功績のことをやたらといいたがる節があったためにアルザスは正直、騎士をやめ密売組織に手を染めた、この大将の前任の騎士の気持ちもわからなくはなかった。
「おそらく、魔法士が放った魔法によるものだろう」
しれっと答える。大将が口を開く前にアルザスが提案した。
「すぐにでも踏み込んだほうがいいと思うが?魔法士や他の者たちに逃げられる前に」
途端に苦々しい顔をして、大将が部下たちに指示を飛ばす。
それを横目で見ながら、アルザスは後ろに降り立った影に声を潜めた。
「どうだ?」
「魔法士は春街の女のようです。彼の傭兵王は少女と一緒に床にあいた穴に落ちました。おそらく地下に落ちたのでないかと」
「そうか。ご苦労。お前は屋敷にいる他の連中を捕らえろ」
そういうと同時に気配が消える。
アルザスは騎士たちが屋敷を囲み、近づいていく様子をみながら、空を仰いだ。
「まったく。オーディン、なにやっているんだよ」
その愚痴のような呟きに答える声はなかった。
声は届かない。
あの光が見えない。
どうして。
出して。
出たい。
どうして―――声が届かない。
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