王の【狗】 33
夜が深まる。
人も虫も植物も生きるものすべてが眠りについたような、空気もその存在などないような静寂。
ただその白い月とそれよりも大き目の青白い月、そしてその二つよりも小さく欠けた赤い月が相変わらず、存在を主張している。
街の宿の一室、その場所にかすかに聞こえるのは規則的な呼吸。
安心しきったようなあどけない顔はいつもよりももっと彼女を幼く見せる。
オーディンは月明かりしかない部屋の中で、ベッドには入らず窓際に置かれた椅子に腰掛け、寝ている少女を見る。
その視線がついと少女の傍らへと動く。
ベッドに寝かされた少女の傍らいるのは、小さな布を敷き詰めたバスケットの中で体を丸くして眠っているのは白い獣―――龍と呼ばれるそれだった。
***
その惨状をみて白刃は言葉をなくした。
きれいなその雪のような、純白の体に刺された杭。
その杭の先には鎖が体に縫い付けてある。おそらく鎖が解けないようにするために施されたのだろう。
オーディンは何も言わずに目を眇める。
アルザスが言っていたのはこれのことだろう。
未だに小さな白い毛並みをもった獣。
トカゲのような体躯ではあるがその獣を彼はなんと呼ぶか知っていた。
世界最古の種。尊き気高き破壊者。生ける世界の軌跡。
「……助けるにはどうしたらいい?」
オーディンは静かな少女の声に問うような視線をやる。髪によって見えない表情がどうなっているのかはわからない。が、考えていることは容易に察することができた。
彼は龍の周りに円柱状に取り巻いている≪陣≫を見て、それが簡単に壊せるものではないとわかっていた。
そういってもこの少女は聞かないだろう。
こういう状況で放っておくなどできないようなお人好しで頑固だということを彼は嫌というほど知っている。
先程から顔色がよくない少女はなんとかしようとするのだろう。
それほどにまで彼は少女の性格を把握していた。本人も憂鬱になるほどに。
やがて彼は嘆息をして重く口を開いた。
「お前ほどの魔力ならすぐに壊せるだろうな。…アルザスに教わっただろう?」
白刃の肩が傍目に分かるほどびくつく。はっとしたように顔を上げると漆黒と視線が交わった。
その色が揺れる。
不安や恐れによって。
知っているのかと問う漆黒。
なぜそういった色を宿すのか分かっていたオーディンは手を振り上げ―――漆黒の頭に振り下ろした。
小気味いい乾いた音が響く。ついでにうめき声も。
「〜〜〜〜っ」
「叩きがいがある音だな」
「良くないわ!!ていうか、いきなり何!?」
手をふらふらと揺らしながら感心したようにいう連れの青年を相当痛かったのか、若干涙目で睨みつける。
「…チンピラどもはアルザスが治した。今頃、ベッドの上で呻っているだろうな」
「え?」
その言葉の意味は。
白刃が目を丸くして彼を見上げる。オーディンは龍の方を見ていて視線を合わせようとは
しない。
「とにかく、なんでもいいからぶつけてみろ。上の屋敷を吹っ飛ばしたんだ。簡単だろうが」
声音にはいつもとかわらないぶっきら棒な響きがあって。
白刃は顔を緩ませ、小さく呟く。
「…ありがとう」
深呼吸をして目の前を見据える。
今でも聞こえるか細い音は、聞く者の胸を締め付けるような切実な響きとどうしようもない諦観を持っていた。
正直、魔具を壊した後から体の中から何かが抜けていくような、ぐるぐると渦巻く気持ち悪さがある。もしかしたら出来ないかもしれない。
それでも。
出たいと帰りたいと。
声が届かないことを嘆く、その思いを放っておくなど出来ない。
その体に刺さった杭や鎖、地面にこびりついた血をみて。
放っておくなどできないのだ。
頭の中に流れ込んでくるのは声。
白刃のうちから溢れる魔力にオーディンが瞠目する。
華奢な背中から溢れる奔流は漆黒の髪をより黒く見せる。
煌く黒。
少女の身を包む燐光。
白刃は桜色の唇を開く。
紡ぐのは、絶対の、力ある言葉。
「砕けろ。束縛の開放を。とにかく…ぶっ飛べ!!」
龍を取り巻く≪陣≫が浮き上がり、同時に龍自身も鎖と杭と共に浮かびあがる。≪陣≫が注がれる力に抗うように輝きを増していく。
そして、ガラスの割れるような音と共に≪陣≫が砕け散り、魔力の光の柱が洞窟の天井を突き抜ける。
天井が崩れる中、白刃は落ちてくる小柄な白を抱き寄せる。
そして自分の腕を強く掴むぬくもりを感じた。
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