優しい時間 58
王城に来てから一月がたったその日、白刃はヴィヴィラードの部屋にいた。
白刃は驚愕と疑問と、ほんの少しの哀しみに似た何かを含んだ顔をしている。彼女の腰掛けたソファの対面にいる王城の魔女は、真剣な目を彼女に向けていた。
「…少し、時間をくれる……?」
絞りだしたような声はかすれていた。
ヴィヴィラードは微笑みを浮かべてうなずいた。
「構いませんです。時間はありますですから」
白刃はその慰めにも似た答えに、ほんの少し救われた気分になった。
* * *
王都は王城から扇状に広がっている。なぜなら王城の背後には断崖絶壁、その下には大きな大河があるのだ。そのため街はがけのぎりぎりまであり、道は王城から下り坂になっている。道の途中には階段もあったりして露天が並び、家々が連なっている。
他の街とは違う、華やいで賑やかな空気に白刃は気分が浮き上がるのを感じた。
彼女は今、街に遊びに来ているのだ。
「迷子になるなよ」
「ならないってば」
「知らない人についていくなよ」
「行かないってば」
「お菓子をくれる変なやつについていくなよ」
「………あたしは三歳児か?」
「なんだ自覚があったのか」
くっと口の端をあげて笑う紅い髪に紫紺の双眸を持った青年を白刃は睨みつける。
「じゃあ、オーディンはおっさんだ」
「そうか。よかったな」
しれっと流され白刃は地団駄を踏みたくなった。
先日―――といっても、もう一週間ほど前になる―――の公爵の反乱の功労として、オーディンと白刃は街に遊びに来ているのだ。
初めは彼女一人ということだったのだが。
ちらりと露店を覗くオーディンを見る。
ユリウスの『王都といえども危険だから、オーディンも一緒に遊びにいっておいで。番犬になるよ』という、笑っているのに空恐ろしいものを感じさせるほどの威圧感により、オーディンも一緒に来たのだ。
それはいい。別に旅も二人でしてきたのだから。ただ。
何か悪態や面倒だというかと思えば、彼はそんなことは言わなかった。
言ったのは。
『わかった』
の、一言だけ。
おかしい。
おかしいだろう。何がって、あのオーディンが。あの人に強制的に何かされそうになったら倍返しどころか、それ以上のものを持って完膚なきまでに沈めて、尚且つ、二度とそんな風に思うことがないように、その恐怖の記憶をしっっっかりと相手に刻みつけることも忘れないあのオーディンが。皮肉を言えば十倍返し、拳を振るおうものなら―――想像したくない。とにかく頼みごとでも、逆に報酬はとかその必要があるのかと言ってばっくれそうなのに。
彼は白刃の傍にいる。
そのことを疎ましいとは思わない。むしろ嬉しいと思う。
脳裏には血で服を染め、ぐったりとしたオーディンの姿が浮かんで消える。
心臓が凍る。世界が色を失うといった言葉の意味を彼女はその瞬間、理解したのだ。
血を止めようとしても、止まらない。傷を塞ごうとしても、力はあっても出来ない。その術(すべ)を知らない。
唇をかむ。
―――もし、あなたが望むのであれば―――
王城の魔女と呼ばれる少女の声が耳に響く。
もし、望むのなら。そう、あの少女は言った。
しわのよった微笑みと温かい手。自分の手を引いてくれたその人の姿が記憶に蘇る。
「おい!」
「わっ」
ぐいっとフードを引っ張られる。たたらを踏んだ彼女を支えたのは、フードを引っ張った青年だ。
「あ、ご、ごめんなさい」
「いいってことよ。気をつけろよ、嬢ちゃん」
ぶつかりそうになった褐色の肌をした壮年の男が、そう陽気に白刃の前を通り過ぎていった。
白刃は恐る恐る後ろを見て、目を瞬かせた。そこにはいつものような不機嫌そうな顔はなく、どこか呆れたような顔がある。
怒ってないのは珍しいと思いながらまじまじと見る。どことなくその顔が穏やかに見えるのは気のせいか。
「何だ」
眉間にしわを寄せたオーディンが白刃を見下ろす。そこで彼女は即座に先程の思考を撤回した。
穏やかじゃない。うん。気のせいだ。
「あ、見て見て。あそこ、面白いのやってる」
そう納得してふと視線をやった先。大通りの角の方では人垣が出来ており、その中央では帽子や棒をお手玉のように投げている、服装の派手な男がいた。
「大道芸人だろう」
「見てみよう」
そう白刃が笑いながら足を向ける。オーディンは、軽くため息をつく。
「オーディン!早く」
「わかった、わかった」
黒髪が風に揺られ、その艶やかに輝く。気だるさをそのまま声に出したように答えるオーディンに白刃は笑う。そんな彼女を見ている紫紺の双眸は優しげだった。
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