扉と鍵 62
よく晴れた日だった。
何でもなく、ただ、澄んだ青い空に穏やか過ぎるほどの風が吹きぬける、そんな日だった。
「……何をやってる」
「オーディン。丁度、よかった」
「…新しい遊びか?」
「失礼だな!」
白刃の部屋の扉をノックもなしに開けたのは見慣れた青年の失礼な言葉に、彼女は怒鳴る。
それもそうだろう。
朝、起きてみればいつもいないはずの白竜が傍にいて、少女の下につれてきてみれば、その少女はなぜか、寝癖とは言いがたいほどに髪の毛をくしゃくしゃにして、鏡台の椅子に座り唸っている。遂に、思考回路が壊れたかとも思ったのだ。
白刃は唇を尖らせながら「大体、ノックくらいすればいいのに」などと文句を言っている。彼女の手には、あの日買った飾り紐。
部屋に入ってきたオーディンの視線に気づいたのか、白刃が困ったように笑う。
「上手くいかなくてさ」
「簡単だろうが」
ため息混じりの声に、白刃が口を尖らせる。
「やり方がわからない」
「この間、やってやっただろう」
「あたしの目は、頭の側面にはついてないんだけど…」
オーディンの言葉に白刃が軽くめまいを覚える。
鏡を見ていたのなら、まだわかるが。あの時は外で、しかも鏡などどこにもなかった。その状態でわかれというのがおかしい。
その時、手に持っていた飾り紐がするりとオーディンに奪われる。飾り紐を目で追うと、紫紺の双眸とかち合う。
「前、向け」
「え?」
「つけないのか?」
訝しげに眉を寄せて問いかけられ、オーディンの言っていることを察した彼女は、慌てて、鏡の方を向く。
鏡に映るのは、黒髪の少女と、その髪に絡められていく紅い飾り紐、そして無骨だがしなやかな、大きな手。
その手の動きを見ながら、鏡に映るオーディンを盗み見る。その伏せられた紫紺の目の先にあるのは、自分の黒髪なのだと思うと、どこかくすぐったいような恥ずかしいような思いがわきあがる。
「なんだ」
白刃の視線に気づいたオーディンが彼女を鏡越しに見る。その視線に鼓動がはねたのを頭の隅に追いやりながら、軽く頭を横に振る。
「いや、別に。ていうか、慣れているね」
器用にも髪の毛を絡ませ、最後に華の飾りを正面に来るように紐をつけるオーディンの手を鏡越しに見ながら、感嘆まじりに呟く。オーディンはその言葉に、呟くように答えた。
「妹のをやっていたからな」
「妹!?いたの!?」
「ああ。…出来たぞ」
「え、あ、ありがとう!今度からは頑張ってみるかな」
離された手を見て、寂しげな感情がわきあがったが、それよりも付けられた飾り紐を見て微笑む。
「出来るのならな」
「出来るよ」
鼻で笑うオーディンに白刃が唇を尖らせる。が、すぐにその顔に喜色を浮かべた。そのまま振り返り、扉の方へ向かっていたオーディンを見る。
「オーディン」
「なんだ」
「ありがとう」
微笑む白刃にオーディンの表情が固まる。白刃はそれを見て、首をかしげたが、オーディンはいつものように軽口をたたいた。
「せいぜい、上手くいくように励むことだな。下手くそ」
「なんだって!?オーディン!」
白刃が喚くと同時に、扉が閉まる。部屋の中で未だに、白刃が何か言っているのが聞こえる中、オーディンは軽く頭をふった。今、過ぎった記憶を振り払うように。
懐かしい記憶が過ぎると同時に、重なったそれ。
切ないほどの痛みと哀惜と、決して忘れることのない絶望を思い知らされたあの日。
故郷が滅んだ、その日に見た。今は亡き妹の笑顔。
それが重なった。
似ても似つかない、彼女に。
「どうかしてる」
そう吐き捨てるように呟き、きびすを返す。呟きは、そのまま空気に溶けて消えた。
廊下を歩く。ゆっくりと。その足を踏みしめるかのように。
廊下の窓の外は、穏やかといっても決して過言で無い柔らかく、温かい日差しが射している。外にある木立は風に揺れ、その緑は日差しを受けて輝き、芝生の若葉色は優しく太陽の恵みを受け止めている。城内の中のざわめきは、活気を持ち、陽気だが、厳粛な空気をも持ち合わせている。
それを肌で味わいながら、白刃は歩を進める。ただ、真っ直ぐに。
シュスラーレは基本的にあまり季節の変動がない国だ。どちらかというと日本の春と夏の境といった感じだった。だからこそ、そんなに時間はたってないように感じる。が、実際にはこの世界に白刃が来て、半年は経っていた。
「……もっと早く」
ぽつりと言葉は落ちる。もっと早く、こうしていれば。もっと早く、こうなっていれば。
廊下の突き当たりの部屋へたどり着く。
ノックをして、返事を待たずに入る。そこは外の陽気な空気とは真逆の空間。
静寂と凛冽で冷涼な空気が満ちる、その場所。
それを助長させるかのように、床の上に浮かび、仄かに発光している≪陣≫。
白刃は一歩踏み出し、部屋へと入る。背後で扉が閉まる音が響く。
彼女はゆっくりと、部屋の中央へと視線を向けた。そこへ微笑みを浮かべて佇む≪蒼玉の魔女≫へと。
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