扉と鍵 63
魔法士の服を着ているヴィヴィラードの微笑みはいつもと変わらない。ただ、違うのはその静かな、だけど確かな力を秘めた蒼玉の双眸。
「お待ちしていました。白刃さん。覚悟はいいですか?」
覚悟。その言葉に白刃はゆるりと微笑む。どこか儚げに見えるそれ。
「いいよ」
声は震えていなかった。その手も、足も。鼓動でさえもいつもと変わらないように脈打つ。 もっと早く、出来ていたら、と胸中で思う。
「以前、お話したように、かなりの危険が伴います。代償にその命を、ということもありえます。むしろ、そちらの方が可能性として高いです。それでも?」
「うん」
ヴィヴィラードのいつもと変わらない声音に白刃はうなずく。
「それがあなたの望みですか?」
「うん」
「……彼が否定しても、ですか?」
その言葉に、白刃はきょとんとして顔を綻ばせた。くすくすと笑う。
「ヴィヴィ」
呼びかける言葉は明るい。
白刃は、目を伏せながら先ほど結ってもらった飾り紐にそっと触れる。その仕草の、なんと優しいこと。紫紺の双眸が脳裏を過ぎった。―――後悔は、ない。
「否定どころか、きっと何も言わないよ。……それよりも―――決めたんだ」
そう微笑む少女にヴィヴィラードはかすかに目を瞠る。その漆黒に迷いはなかった。
ヴィヴィラードはまぶたを下ろし、再び目を開く。そこには幼い少女はいない。いるのは≪蒼玉の魔女≫、その人。
白刃は二重の輪になっている≪陣≫の中心へと入る。
ヴィヴィラードが手をかざす。その可憐な唇が開く。
「これより、≪契約≫の解呪を行います」
瞬間、彼女の全身に立ち上るのは、絶対的な魔力。その畏怖するような魔力を感じながら白刃は瞳を閉じる。祈るように。そっと眠るように。そして、意識が闇に沈む前に紫紺の双眸を思った。
「あれ?オーディン。白刃ちゃんは?一緒じゃないのか?」
「…聞いていいか?どうして、あいつと一緒だと思ったのか」
「いや、うん。俺が悪かった。悪かったからその今にも射殺すような目をやめてくれ」
廊下を歩いていたアルザスが、見知った背中を見て声をかけると、その見知った背中を持つ青年は、機嫌があまりよろしくないらしい。その目には、不機嫌さが滲んでいる。が、よくみれば、その目に不機嫌以外の色が浮かんでいるのを見て、アルザスは内心で首をかしげる。
どこか焦燥に似たそれは、アルザスが見たことのないものだ。最も、この青年が怒りや嘲笑の類(たぐい)以外の、感情を現すのは滅多にないだけに、彼は首をかしげた。
アルザスの視線に気が付いたのか、オーディンは隣を歩く彼を見やる。
「なんだ?」
「いや。何かあったか?」
オーディンの呼吸が一瞬、止まる。オーディンは胸中に湧き上がるものを抑える。それは表情には出なかった。が、それを見落とすアルザスではない。
「どうかしたのか」
アルザスの声が、真剣味を帯びる。
「いや」
オーディンは首を横へ振り、否定した。どうかしている。ただ、過去の記憶と重なっただけにすぎない。なんの確証もない。が、否定も出来ない。漠然とした、その感覚。
それは焦燥、不安、そういった類のものだった、が、オーディンには胸にあるものがそう呼ばれるものだとは気づかない。
脳裏に過ぎるのは。
故郷の滅んだ、その日の太陽の色、穏やかな風。
仲間たちの笑う声と。
―――兄さん。
幼い、自分を慕う少女の笑顔。
刹那。
「っ!!」
「オーディン!?」
突如、全身に走った激痛と灼熱の衝撃に、オーディンはその場に崩れ落ちる。アルザスが驚愕に声をあげた。
苦悶の表情を浮かべ、唇を噛み締める青年の額には汗が浮かび、それが精悍な顔立ちの輪郭を舐めるように伝い、床へと落ちる。
手と腕を床につき、なんとか立とうとする青年を支えるようにアルザスが腰を落とし、手を伸ばすが、それはオーディンの手によって振り払われる。
オーディンの様子にアルザスは、二人の少女―――一方は少女でない―――が何をしているのか思い当たり絶句する。
「これは…まさか……ヴィヴィたちか!?…おい!オーディン!」
アルザスがいった言葉に、オーディンの脳裏を一人の少女の姿が浮かんで消えた。
黒く艶やかな髪の感触。しなやかなそれは先ほどまで、この手の中にあった。
その夜を溶かし込んだ瞳は、表情よりも雄弁に感情を現すことを知っている。
そして、この衝撃に似た感覚も。
ぎりりと床に爪を立てる。奥歯を噛み締め、激痛に似た圧迫感と体に走る灼熱の衝撃に耐えながら、腕に力を入れる。
歪む視界。荒れた吐息が耳に響く。何とか立ち上がったその体を壁へと預ける。
「オーディン!無茶をするな!」
アルザスの咎めるような声は彼の耳に響いてこない。彼の脳裏を占めるのは、痛みに似た圧迫感とそれをもたらしている少女との。
この感覚を知っている。
あの少女と、出会った。
あの瞬間に。
「っ……ぐっ」
「オーディン!…っ!?」
視界が霞む。アルザスの焦ったような声。それを遠くに聞きながら、血の滲むような声で呟いた。
「しらっ…は…っ」
その声は、少女には届かなかったけれど。
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