扉と鍵 67


 

 水の中をたゆたうように。
 柔らかい真綿に包まれているように。
 例えば、春の麗らかな木漏れ日の中にいるような。
 そんな優しくも穏やかな空間の中。
 ふいに頬をなぜたのは、柔らかな風のようなそれ。
 
 
 ―――扉を開けれるのは、あなただけ―――
 
 
 聞きなれた声よりも、もっと張りのある音。
 
 
 ―――鍵は、あなたの中にあるのよ。白刃…いえ……ィ…ラ―――
 
 
 
 
「………おなかすいた」
 
 まぶたを上げ、そうかすれた声で呟く。そして、最初に見たのは―――静かな紫紺だった。
 が、その認識が間違いだと気づいたのは、脳震盪を起こすほどの衝撃を感じてからだった。
 
「いっ…………………っ!!」
 
 痛い、ものすごく。これは決して手加減なんてしていないだろうと思うほどのそれ。
 割れるのでないかというような衝撃。自分の頭の上には今、星とひよこが「ぴよぴよ」と可愛く回っているだろうと想像する。それが、現実逃避だとは分かっているのだが。
 
 頭を、上げられない。
 ベッドの上。うつむいた視界に見慣れたブーツと剣が見える。―――震え白くなるほど、握り締められた拳も。
 
 ああ、と、ため息に似たものを胸中で吐き出した。
 
 申し訳なさと後ろめたさと、喜び。
 解呪のことを言わなかったこと。
 心配をしてくれたということ。そして。
 
 そして―――契約を、解かなかった、ということ。
 
 痛いほどの沈黙。人によっては嵐の前の静けさと評することも出来るだろう。その静かで重い沈黙を破ったのは、紫紺の。
 
「………なぜ、黙っていた」
 
 びくりと細い肩が震える。それに目を細めた。
 
「白刃」
 
 答えない、顔もあげない彼女の名を呼んだ。
 以前、出会ったばかりの頃、「おい」だの「小娘」だのと呼ぶたびに、繰り返し言われた。
 
 ―――あたしの名前は、白刃。白刃だ―――。
 
 過ぎった記憶を振り払うように彼は軽く頭を振り、ため息をつく。ぴくりと少女の肩が再び震えた。
 
 こうなることはわかっていた。怒るだろうと思っていた。漠然と。確信に近い感覚で。同時に、後悔しないとこも。自分がそうすることを望んだことを後悔しないと、わかっていた。だけど、それがとてつもない自己嫌悪を生み出す。
 
「……ごめんなさい」
 
 なんとか声を絞り出すと同時に、ベッドに押し付けられた。息が詰まる。閉じた目を開けると、すぐ傍には精悍な顔があった。
 息を呑む。その紫紺の双眸が、怒りに静謐にだけど烈火のごとく、冷たくも激しい感情を宿している。
 
「おー…でぃん……」
 
 声は、信じられないほど小さくかすれていた。白刃は自分の肩を押さえている青年の手が肌に食い込むほど力が加わったのに顔をしかめる。
 
「こんなことをして喜ぶとでも思ったのか?」
 
 その感情を押さえ込み、のどからやっと出したような声に、彼女は目を丸くする。目の前にある紫紺は、先ほどのような激しさを残しながらも痛みをはらんで。
 
「言え。なぜこんなことをした」
 
 なぜ黙ってやった。
 そう聞こえた気がして。胸が、のどが震える。白刃は顔を歪ませた。
 もう止まらない。言葉が、感情が溢れる。
 
「だって、オーっディ…ン、いっいつか、あ、あたっ、のせい、で、し死んじゃっう」
「白刃」
 
 オーディンの声は聞こえない。溢れて溢れて、声が、零れ落ちる。
 
「契、約っしな…ひっく、かったらっ、ヴィっ、ヴィ…ド、とかお、おうさ、まっく、もあたし、をまっまき、ひっ」
「白刃」
 
 どこか懇願の響きを宿した低い声は、白刃の嗚咽に消される。
 
「そ、したっら、ま、っまきこまひっく、れな、かっ、!?」
 
 声は唐突に切れた。オーディンがいつの間にか白刃の目じり辺りを、涙をその唇で拭ったからだ。
 頬に添えられた手は、温かい。驚愕に声も思考も止まった白刃は頬を辿っていた唇がまぶたに、額に落とされたところで我に返り、声にならない悲鳴を上げた。
 
「○×▽※□#%&☆¥→℃――――――!!!!」
 
「人語を話せ」
 
 そっけなく離れたオーディンが言い放つ。真っ赤になり硬直する白刃はそのそっけない言葉にも反応できない。
 ただ、顔を赤くし指でオーディンを指している。その指も震えて見えるのは気のせいではないだろう。
 
「茹蛸(ゆでだこ)だな」
 
 くっと笑われ、そこではっと我に返り、白刃は彼に噛み付く。
 
「だっ、だだだだだだだ誰のせいだ!!」
 
 セクハラだ痴漢だエロオヤジだという単語が盛大にどもる白刃の脳内を巡る。動揺している彼女を見ながら、オーディンは白刃の首の後ろへ手を回し、引き寄せたと思うとその額同士をこつんと合わせた。
 
「お前はバカだ」
 
 目を閉じ、ため息と共に言われ、白刃は目を瞬かせた。その口調には、呆れも怒りもなく、ただ安堵した響きがある。
 
 あの契約の衝撃と、ユリウスの言葉。
 
 命を懸けるなど。大バカだ。
 
 床へその艶やかな黒髪を広げ、力なく横たわった、青白い顔をした少女。
 衝動のままに、駆け寄ったあのとき感じた体の重さは、契約の衝撃によってではなく。
 息をしていると、鼓動を波打っていると確認したときに胸中に沸きあがったもの。同時に体から力が抜けた。その意味。
 
 
 それを彼は、抑えるように額をあわせていた。戸惑う少女の温かみを感じながら。
 

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