扉と鍵 69
「お元気そうで、なによりです」
そうヴィヴィラードが白刃の部屋を訪ねたのは、白刃が目覚めて二日目。―――契約の解呪から五日目の昼下がりのことだった。
「ヴィヴィ、あの…その…」
ソファに座り向かい合う白刃は、視線をさまよわせ口ごもる。
契約の解呪を頼んだのは、白刃だ。その白刃が、その解呪を結果的に拒んだ。あの過去の記憶の中で。
唯一の家族と呼べる人の前で。
それに後悔はない。が、それが彼女の中に後ろめたさに似たものを生んでいる。
出来ることなら、目が覚めて謝りに行きたかったのだ。それはもう、ダッシュで。土下座をする勢いで。平身低頭して。
「白刃さん」
「はい!」
「体は、大丈夫ですか?」
「うん。大丈夫」
「アルザスからきいたのですが…」
ヴィヴィラードが一旦、言葉を切る。その顔に浮かぶのは微笑ましいものを見るような、どこか面白がるものを見るようなそれだ。
白刃がなんとなく、良くない予感がして体を引く。もっともソファに座っているため、たかがしれていたが。
「なんでも、オーディンがあなたの傍にいて、動けなかったとか」
白刃の顔にかすかに朱が走る。
ヴィヴィラードの言うとおり、彼は白刃の様子をよく見に来た。大丈夫だとベッドから起き上がっていても、まだ寝ていろとばかりに、ベッドに彼女を押し込んだ。
食欲は戻ってきたし、体も大丈夫だというのに、だ。
一体、何があったのかと思う反面、嬉しくもあるので白刃はなんともいえない顔をする。ヴィヴィラードはそんな彼女に優しく微笑む。
「どうやら本当らしいですね。いいことです」
満足気にうなずくヴィヴィラード。白刃はいいのかと内心で首をかしげる。そして、ヴィヴィラードがその穏やかな表情から、一変、真剣みを帯びた視線を彼女に向ける。
自然、白刃の顔が引き締まる。何を言われるのか。その予感があった。
「白刃さん」
「はい」
穏やかで、どこか緊張を帯びた空気が流れる。その静寂に落とされたのは、静かなそれでいて優しげな声だった。
「あなたは、解呪の最後に願いましたね?」
白刃は、悲しげにどこか切なさを帯びた笑みを零した。
* * *
「どうしてわかったんだ?」
白刃は穏やかにほろ苦く笑みを浮かべる。
白刃が目を覚ましてからオーディンが連れてきたセイは、彼女の傍で丸くなっている。その白竜の毛並みを撫でながら彼女はヴィヴィラードの言葉を待った。
ヴィヴィラードは女官が入れていったお茶を飲み、そのカップを音もなくソーサーに置いた。
「解呪の際に、最後の最後で、わたしでも解けない≪陣≫がありました。それは≪陣≫というよりも簡単な仕掛けですが。それが最後の仕掛けであり、最後の扉。そして、その扉を開ける鍵はあなたが持っている。まぁ、それに気づいたのはすべてが終わった後でしたが」
ほろ苦く笑う蒼玉の魔女に白刃は頭を下げた。
「ご迷惑をかけてすいませんでした」
願ったのは白刃だった。解呪をしてほしいと。何よりもオーディンがそれを望んでいるのだといって。
だけど。本当は。
自分が怖かった。いつか、彼を危険な目に合わせ、彼を殺してしまう自分が。
だけど―――。
『その命の危険にさらして、その先の時間をつぶすことはしないで』
あの人が、そういってくれた。
最期に、白刃に言ってくれたように。
―――自分からその先の時間をつぶす真似はしないで。可能性を、自分から投げ出すような真似はしないで。生きなさい。白刃―――。
『あなたが望めば、叶えられることもあるのよ。先の時間を刻むことができるの』
だから。
「顔をお上げなさい」
ヴィヴィラードの厳粛な響きを持った声に、白刃は顔を上げる。ゆっくりと。
胸のうちが不自然なほどに凪いでいた。
「小さき魔女。未だ生まれ出(いずる)時を待っている魔女よ。その選択に後悔はあるか?」
白刃の漆黒が揺れる。
蒼玉の双眸が、煌きを宿して彼女を見据えている。
後悔。
怒りに震える拳。握り締められた手。祈るような声に。あわせられた額。
伝わってきたぬくもり。
「………いいえ」
声はかすれも震えてもいなかった。その漆黒の双眸は静かに、だけど決して折れぬ光を宿す。
「いいえ」
後悔は、ない。あのぬくもりを知っているから。
解呪をすれば、彼の命の危険は無くなる。
こんな小娘一人に振り回されることなく、彼は生きていけるのだ。
でも、それを選ばなかった。
彼との呪縛に似た糸を切ることは、しなかった。
彼女の中にある感情ゆえに、だ。
それが自分のエゴであり、罪であったとしても。
彼女は、後悔していなかった。
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