扉と鍵 70
昔、よく周りの子供たちに仲間はずれにされ、その度に泣いて帰っていた。
あの日もそんな日だった。
夏の暑い日差しの降り注ぐ、そんな日。
幼い少女に告げられる秘密めいた言葉。
たどたどしく発音すると、柔和な顔をさらに優しく穏やかにして笑ったその人。
頭を撫でられ、ほめられたことが何より嬉しいと感じていたそんな日々。
―――もう、昔の話だ。
* * *
「なら、いいです」
いつものようにふんわりと笑うヴィヴィラードに白刃は仄かに笑う。
「で、白刃さん」
「ん?」
お茶を飲みながら白刃がヴィヴィラードを見る。
「面白い話をしましょうか」
「面白い話?」
「ええ」
白刃がカップをソーサに置く。ヴィヴィラードは目を細めて懐かしむように笑った。
「白刃さんにあの魔法をかけた人物。あの魔力の残滓、あんな高度な≪陣≫を描ける人を一人だけ知っています。その人の名も」
穏やかに笑う老婆が白刃の脳裏を過ぎる。
「セティリアーナ・ハルシオン。あんなことが出来るのは彼女だけです」
白刃が呆然とヴィヴィラードを見る。魔女は、小さく笑う。
「…どうして、その、名前を……」
「彼女は、こちらの人間ですよ。異世界からのお客人」
今度こそ白刃は仰天し、叫んだ。
「いつから!?」
「白刃さんの契約の≪陣≫の解析をする際に、その≪陣≫の≪式≫やくせ、あとは魔力の残滓からもしかしてと思っていたのです」
「そんな前から!?」
しらっと答えたヴィヴィラードに、白刃が驚愕の声をあげる。
「ええ。確信したのは解呪の段階で、ですけど」
「でも、どうして、あたしが…っ!」
異世界の人間だとわかったのか、そう続けようとしても声にならない白刃にヴィヴィラードは優しく答える。
「今から二百年前、この世界には魔女と呼ばれる女たちが三人いました。そのうちの一人はわたしです。他の二人のうちの一人がセティリアーナです」
「………うそ」
「本当ですよ。有り得ないほどの魔力を持った稀代の魔女。最高峰の魔法士。そして、異世界へ渡った≪暁の魔女≫です」
「異世界…」
あの人は。あの優しく笑うあの人は。
忘れないで、白刃。この言葉を。
そういったあの人は、この世界にいたのだ。
「ここに、いたんだね。あの人は」
今、自分がどこにいるのかを知って感慨深げに呟く。
「…えぇ」
白刃の呟くような声に、ヴィヴィラードはふんわりと童女の無邪気な笑みを見せる。
「そっかぁ」
そう息を深くついて、ソファに背を預ける。
「おそらく、あなたがこちらに来たのは、セティがそちらに渡ったために世界が再び、均衡を取り戻そうとしたためでしょうね」
「均衡?」
「ええ、世界の均衡です。世界の意志があなたを呼んだ。セティも魔法士です。だからこそ世界を渡ったことによって歪みが生まれるのは知識として知っていたのでしょう。だからこそ、あなたがこちらに来るのを予期していた。世界が均衡を戻すために、自らの宿木から飛び立った『鳥』を『呼び戻す』ことを」
穏やかに語るヴィヴィラードを見ながら白刃は、心が温かくなっていくのを感じる。
あの場所から、離れたことに寂しさはある。郷愁も。それでも、それと同じくらいにこの場所にいることを嬉しく思う。
「ヴィヴィ」
白刃の穏やかな声。
ヴィヴィラードが目を軽く瞠る。
漆黒の双眸がどこまでも深く穏やかに、優しい色に染まる。
「あたしは、ここに来てよかったと思うよ」
なによりも、綺麗だと思う紫紺を思いながら白刃はそう、呟くように言った。
* * *
いつか、それは起こってしまう。
その前に、出来るだけのことをしておかなくては。
自分は後悔していない。だけれど。
彼女は自分の膝の上に乗っている小さな子供に視線を落とす。
その琥珀色の目が細められる。
黒髪に黒い双眸。
それは彼女が愛した男の色だ。
やがて、その男と子を生したが、彼の色を一番強く受けついだのはこの子だ。同時に自分の力も。
だからこそ、今出来ることをしなければならない。自分がいる間に。そう彼女は決然たる意思を宿しながら幼い子供に声をかけた。
告げた言葉に、愛らしい顔がきょとんと彼女を見る。そして、零れるような笑顔がその顔に広がる。
穏やかな日差しの下で煌く黒髪に澄んだ漆黒の双眸。
「いい?忘れてはだめよ。―――白刃」
そう、くすぐったそうに笑う子供の髪を優しく撫でる。
彼女が自らの意思で鍵を開けるその時まで、どうか、彼女を護るようにと祈りながら。
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