傷跡 82


 

 鮮血が空に舞う。
 
 ぶつかり合う魔力に土ぼこりが立ち、魔族である男はその煙の向こうで膝をついている少女へ視線を向ける。
 少女の細い左肩には彼女自身の右手が置かれ、手やその下の肩からは紅い色が見える。
 
「……とっさに結界を張ったか」
 
 淡々と状況を読む魔族に白刃は荒く息をする。
 心臓が今まで感じたこともないくらいに暴れている。呼吸がせわしくなる。冷や汗が背中を伝う。そして、それ以上に―――。
 
 奥歯を噛み締める。
 頭に、体に走る激痛。
 あと少しでも。
 あと数瞬でも、盾をはるのが遅かったら。
 
 
 自分の首は飛んでいた。
 
 
 自分の中にある力に、知識に、それをもたらしてくれた存在にこれほど感謝したことはない。
 
 ざりと魔族が地面を踏む。
 近づく距離に彼女の体はびくりと過敏な反応を見せる。そして、一瞬で高まる魔力と紡がれる≪陣≫に魔族が片眉をあげる。
 
「無駄なあがきはよせ。苦痛を感じる時間が延びるだけだ」
 
 その場を支配する主のような宣言。伸びてくる手がその黒い双眸に映り―――誰かの背中が視界に入ると同時に裂帛の気合のような怒号と共に、魔族の男の腹部に蹴りが入った。
 
「あ゛ーくそっ!久々にキいた」
 
 ちくしょう、痛ぇじゃねーかこのクソ野郎が、と自分が殴り飛ばした魔族にぶつぶつ零しているのは筋骨隆々とした、心は女といっている彼だ。
 
「…ぁ、リア、さん」
 
 声は面白いほど震えている。それがどうしてかなど考える余裕はない。
 
「ああ、白刃ちゃん。大丈夫?ありがとね。ここからはわたしが相手をするから」
 
 そう呆然としている彼女にアリアは額から一筋の血を流しながら安心させるように微笑み、
 
「俺たちが、の間違いだろう」
「黙ってろヴェスタ」
 
 声と共にアリアの隣に立つのは、剣を握り血のつばを吐いた青年。
 
「ヴェス、タ、さん」
 
 白刃の覇気のない声に彼は肩越しに視線をくれたが、何も言わずにアリアが吹っ飛ばした魔族に向き直る。そこには何もなかったかのように立つ男。
 
「たかが、人間風情が。三人で何が出来る」
 
 歯をむき出しにして凶悪に笑う魔族にヴェスタ、アリアの双眸が険しさを帯びて、すぐさま仄かな安堵の色を灯した。
 
 
「三人じゃないさ」
「でかい口をたたくな」
 
 
 魔族の背後から、首元に突きつけられたのは二振りの抜き身の刃。
 
 その持ち主は、紅い隻眼をぎらつかせ好戦的に笑みを浮かべた男と紅い髪に紫紺の双眸に冷然とした色を宿した男。
 
 彼らの背後には他にも魔法士や数人の傭兵たちが構えている。
 魔族はそんな殺気だった多数の相手を前に態度を崩さない。
 
「俺に勝てると思うのか。貴様らのような弱小の存在がっ…!」
 
 言葉は不意に切れた。魔族は弾かれるように空を見上げ、顔を険しく歪ませると舌を打つ。
 
 そして、
 
「…わかった」
 
 そう呟くと白刃たちが拘束し、自分が吹き飛ばした魔族へ手を向ける。途端に周囲を圧迫する魔力の奔流。
 
「まずい!」
「下がれ!!」
 
 クロードとオーディンの鋭い怒声が飛ぶと同時に灼熱の腕が地面を舐めつくした。
 
 しばらくして灼熱の気配が過ぎると同時に、湧き上がった粉塵が収まる。傭兵たちが周囲を見渡しても、魔族の男も捕らえた魔族でさえ跡形もなく消えていた。
 
 
 
 
 ゆらゆらと揺れている。が、それが心地いいゆれであり、無条件で身をませることのできる安心感とまどろむような、それでいてゆるりと覚醒するような曖昧さ。
 それが昔、祖母に抱かれていたときの感覚と似ていて。
 
 ―――意識の中に何かが滑り落ちた。
 
 ぼんやりと視界に映った木目に彼女は目を瞬かせた。
 がばりと身を起こし、周囲を確認する。そこはここ数日で見慣れた宿の部屋だ。窓の外から差し込む光は赤みを帯びていて、夕刻だとわかる。
 
 そこで昼間の出来事が時間を巻き戻すかのように、一瞬で脳裏を過ぎり。
 
 灼熱の焔が地面を嘗め尽くし、自分たちを巻き込もうとした瞬間に結界をはり、そのまま意識を失ったのだと思い出す。
 
 はっとして左肩を見ると怪我はきれいになくなっていた。魔法士の人が治してくれたのだろうかと考えながらベッドを降りる。
 その時、部屋のドアが開けられ顔を出したのはアリアだ。
 
「ああ、起きたのね」
「アリアさん!大丈夫ですか!?」
 
 白刃は身支度を整えることなく、アリアに飛びつくように駆け寄る。漆黒の双眸に心底、心配ですといった色を浮かばせている少女に彼女は微笑む。
 
「大丈夫よ。頑丈だもの。白刃ちゃんは、大丈夫?」
「はい」
「そう」
 
 顔色は未だ良くないものの声やその目にはいつもの張りと光が戻っている。アリアは安堵の吐息を吐きながら軽く頭を撫でると、彼女を促した。
 
「さあ、お腹すいているでしょう?行きましょ」
「あ、はい」
 
 部屋を出て、廊下を歩きながら白刃は何かを探すように視線をさまよわせる。気配でそれに気づいたアリアは悪戯っぽい笑みを肩越しに白刃に向けた。
 
「傷はオーディンが治したのよ。そして、気を失ったあなたをここに運んだものオーディン。ああ、ついでに言うとお姫様抱っこでね」
「………………………え?」
 
 白刃の思考が一瞬、凍る。
 
 お姫様抱っこってあれか。あれなのか。膝の下と背中を支えるように抱き上げるあの格好か。いやそれ以外にあるのか。むしろあってほしいというかそれだけじゃなくて、宿まで連れてきてもらったって、街をその格好で歩いたってことで。
 
 
「アアアア穴があったら入りたいィイイイイ!!」
 
 背中から聞こえる少女の絶叫にアリアは細く笑み、次の瞬間には強気な笑みを浮かべる。
 
 
「……さて、これからが大変ね」
 
 
 それは未だに自分の背後で唸っている少女とその連れの傭兵である青年の未来か、それともこの騒動の収束にむけての言葉だったのか、確認できる者はいない。
 

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