傷跡 85
―――殺してやる!!
幼い声で、力のない身で、そう叫んだのはもう遠い昔。
失くしたくないものが、あった。
何よりも大切だった。
喪失を、慟哭を経験した後、烈火のように熱く、それでいて凍えるような冷たい殺意と憎悪が残った。
死人を斬り伏せていく中で、オーディンは魔力の出所を探っていた。死人が彼の肉を食もうと手を伸ばす。それを無慈悲に剣で斬り倒す。が、相手は腕や足がなくなろうとも、致命傷を負うことがあっても死ぬ事はない。首を斬り落とすか、魔法で文字通り跡形もなく消し去るかをしなければ何度でも向かってくる。
悲鳴に似た絶叫があがる。
そちらに目をやれば、傭兵の一人が倒れた死人に足をつかまれ、喉元やわき腹、腕を他の死人に食われていた。
オーディンは紫紺の双眸を細める。喉もとを深くかまれている。致命傷だ。
考える前に体が今までの経験から動く。目の前にいる死人を斬り、未だにかすかに意識がある傭兵ごと彼に喰らいついた死人を一刀のもとに斬り伏せた。
その光景をヴェスタは見るともなしに視界に入れていた。
ああと呟きにもならない声が胸のうちで響く。
背を向けた紅い髪の傭兵。そのまとう空気は怜悧で冷徹。感情など一切なくしたかのような表情に紫紺の双眸だけが鋭く、確固たる意志を宿している。圧倒的な剣の腕前は昔みた彼と寸分として違わない。
それは白刃が知らない彼の姿だ。
傭兵の中でも一目置かれ、何度も戦場に立ち数百人の傭兵の部隊の隊長として立つこともあるオーディン・ユラ・アルセイフの姿だ。
彼と仕事が出来ることはヴェスタにとって喜ばしいことだった。昔、一緒に組まないかといい、何度でも頼んだ。そのたびに冷たくあしらわれ続けたが、今でも憧憬と尊敬が曇る事はない。だからこそ、彼の相棒として少女が一緒にいることが不自然でどこか悔しかった。あの峻烈で強烈な彼が腑抜けたのかと思った。それが杞憂だったと間違いだったと少女の実力と彼の変わりない姿を見て、ヴェスタは胸のつかえが取れた気分だった。
あらかた襲撃してきた死人が動かなくなるのを確認したクロードは目を細めて、周囲を確認した。
動けないもしくは動かなくなった人数を冷静に把握する。その表情には何も浮かんでいない。
傭兵とはそういうものだ。自分の実力だけで戦場を進み、騎士や軍人のように誰かに膝を折り、忠誠を誓い、身分の保障などがない戦士だ。信じられるのは、その時、同じ戦場を駆ける同胞と自分の腕と運だけ。その後に得られる報酬は、勝利の美酒よりも、栄誉よりも得がたいものだ。
「動けないものはここでアリアたちと連絡をとれ。他の連中は俺たちと奥へ」
その非情とも取れる言葉に傷を負った傭兵たちは頷く。この先、足手まといになる者は連れて行けない。
強く頷き了承を返す彼らにクロードが頷き返す。そして、きびすを返そうとした瞬間、体が引っ張られる感覚が彼らを包む。同時に周囲の光景が歪み、変わる。
オーディン、ヴェスタ、クロードは何が起こったのかすぐにわかった。強制的な転移だ。そして、三人は転移させられた場所を把握しようとし、反射的に剣を構える。
「こんばんは。噂に名高い≪ベルセルク>の方々。そして風の傭兵と呼ばれる魔眼の方」
艶を含んだ美しい声がその場に響く。
暗い広間の奥に佇んでいるのは剥き出しの肩に、胸元が大きく開いたドレスに身を包んだ女。
彼女は優雅に折った腰をあげ、傭兵たちを見渡す。
魔法士だと誰もが確信した。緊張がその場に走る。ただ、オーディンだけが、その魔法士を凝視していた。
この魔力の色を知っている。
この声を知っている。
この女を知っている。
脳裏に過ぎるのは、炎と絶叫、怒号に包まれた故郷。兵士たちの剣の煌きと当時の愚王とされたシュスラーレ国王の野太い声。
駆け抜けたのは、にごった翡翠色の魔力。
目の前にいる魔法士の体に取り巻くそれと同じ―――。
「貴様かっ!!」
空気を、窓や壁を揺らすような怒号が響く。クロードが、ヴェスタが目をむいてそちらを見る。
一瞬のうちに魔法士の懐に入ったオーディンの剣が彼女の首を飛ばす。が、それは揺らいだかと思うと霧のように霧散した。
「まぁ、乱暴ね」
幻影でオーディンから逃れた魔法士は癇癪を起こした子供を見る眼差しで彼を見る。それがオーディンの怒りにさらに油を注いだ。
紫紺の双眸は激情に揺らぎ、その紫の色味を増す。鋭く冷たくそれでいて純粋な殺意と憎悪の刃が女の姿を真っ直ぐに貫いている。
魔法士はオーディンをうっとりと見た。
激情に煌く紫紺の双眸。魔眼と呼ばれるそれ。
彼女はこれがほしかった。そして探していた。そして、それは今目の前にある。
体の奥底から湧きあがる歓喜。渇望が今、満たされていくような感覚は狂気を含んでいた。
「オーディン、落ち着け」
そのクロードの低い声にオーディンの紫紺の双眸に浮かんだ感情が薄れる。クロードの声に女は気分を害されたかのように顔を歪ませる。彼は魔法士を泰然とした態度で見返す。
「いい気分なのに邪魔しないでくれるかしら?」
「へぇ、それは悪かったなぁ。聞きたい事があるんだが、領主はどうした?」
「領主?ああ、あの人ね。生きているわよ」
いつもの闊達とした口調で話をするクロードにオーディンは少しずつ冷静さを取り戻しながら、ふと女の背後の暗闇に誰かがいることに気付いた。
「なら、居場所を吐いてもらおうか」
クロードがそういうと女はくすりと笑う。妖艶な紅い唇が怪しく歪む。
「いるじゃない。ここに、ねぇ?」
そういって、軽く身を横にずらすと暗闇に浮かぶ人物が魔法でともされた燭台の元に照らされる。
「なっ!?」
ヴェスタが驚愕に声を上げる。クロードは絶句し、オーディンは双眸に険を宿す。
部屋の奥に置かれた椅子に腰掛けたのは青白い容貌の男。その頬はこけ、服の上からでも分るほどにやせ細り、生きているのかも分らないほどだ。そして何よりも以上なのは、その腹部だけが異様に膨れていることだった。
「…魂を食わせていたな……っ!」
オーディンの低い怒りを抑えた声に女はうっそりと笑い、
「さあ、仕上げを始めましょう」
片手をひらめかせた瞬間、三人の足元ににごった翡翠色の<式>が浮かび彼ら四肢は圧迫感とともに床に縫い付けられる。その時、別の場所で屋敷全体を揺るがすような魔力の奔流が爆発した。
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