暁の魔女 87


 

 小さく繊細な、それこそ雪のような光の粒子が降り注ぐ。
 
 濡れたような黒髪が魔力の奔流の余韻にさらさらと流れる。その髪につけられた飾りが光の粒子を反射し、闇夜に包まれた空間の中、彼女の体を取り巻く魔力の燐光によって周囲から浮き立って見えた。
 
 
 それは幻想的で、清冽な美しい光景だった。
 
 そこにいるのが誰かを理解していながらも、今までの彼女とは結びつかないほどに。
 
 呼吸を忘れ、息を呑むほどに。
 
 幼さを残した白貌、小柄な肢体、凛とした背中、そして―――強く、苛烈でそれでいて怜悧な揺るがぬ意志を宿した黒い双眸があった。
 
「………ま、魔女」
 
 かすれた声は誰のものか。
 彼女は確認すらせずに、今までそ魔族がいた場所を見る。
 
「逃げたか…」
 
 こぼれた声は抑揚がなく、静かにその場に落とされる。
 
「し、白刃ちゃ、ん?」
 
 アリアがかすれた声で少女に呼びかけると、彼女は肩越しに彼らを見る。その顔は一様に強張っている。中には魔法士で傭兵の何人かは血の気の失せた顔で少女を見ている。
 
 
 ―――忘れないでください。わたしたちは唯人には化け物でしかないということを。
 
 
 記憶に新しい忠告と呼べる言葉に彼女は目を細めた。そこ宿るのは自嘲と自虐的な色。一瞬だけ浮かんだそれはすぐさま霧散し、彼女は頭を振るとため息を吐く。
 
「魔法士のところへ行きます。アリアさんたちは、ここに」
「だめよ!危険だわ!!」
「……傍にいられると巻き込まない自信がないんです」
 
 そう寂しげに、凛とした笑みを浮かべて少女はその場から消えた。
 残されたアリアは肺が空になるほど息を深く吐き出し、かすれた声をつむいだ。
 
「……あれが、魔女」
 
 
 
 
 屋敷どころかその場所一帯を揺るがす魔力の奔流に、女の魔法士は驚愕と畏怖の感情をその顔に浮かばせる。
 
「これは…。まさか……」
 
 魔法士の紡いだ<陣>一瞬、だけ効果を失う。彼女ははっと息を呑み、その場から退く。
 
 鋭い銀色の刃が空を切り、オーディンは舌打ちをした。彼の背後の方では、圧力から開放されたヴェスタとクロードが立ち上がり、険しい顔で剣を構えている。
 
 魔法士と対峙しているオーディンは先ほどのものが何なのか、誰のものなのか理解していた。同時に、ちりと怒りとは違う別のものが胸のうちに生じる。
 
「時間がないわね」
 
 彼女も魔法士だ。先ほどの力がどのようなものなのかは理解できる。むしろ本能で感じていた。
 
 覆しようがない力の差。才能の差。ガラス玉は磨けば美しく光るが、宝石にはなれない。
 それでもどうしても手を伸ばしたかった。遥かなる高みに。だからこそ。
 
 思考のふちにいた魔法士の傍の空間が歪む。そこから現れたのは魔族の男だ。
 
「トーラス」
「ランダ。早く片付けろ」
 
 魔族であるトーラスは傷を治すことなくランダ、魔法士に声をかけると彼女は頷いた。
 
「わかっているわ」
 
 返事をすると同時にトーラスはヴェスタとクロードを一瞥すると、二人は強制的に転移させられその場から消えた。
 
 一方、オーディンは再び発動した<陣>から伸びた無数の細い針によって足や腕、手の甲を刺され床へ拘束される。
 痛みに顔をしかめながら目の前にいるランダをにらみつける。
 魔法士のいいようになっているという事実が彼を苛立たせる。同時に、過去の記憶がさらに拍車をかける。
 
「大人しくしていてね」
 
 トーラスが彼らに背を向け、足を進める。その先にはもはや死人同然の領主の姿。彼に近づき、トーラスが無造作にその腕を腹に突き刺した。
 
 人ではない苦痛の声が広間に響く。目を瞠るオーディンの前でトーラスは腹に埋まった腕を入れ無造作に腕を引き、そこから大きな膜に包まれたものを取り出す。そして何かを唱えると手のひらに乗るほどの半透明な結晶になった。
 
 それが何なのか彼にはわかった。
 
「…それは」
 
 オーディンを振り向きながら艶然と笑う魔法士。その瞳には恍惚の色。
 このような状況でなければ美しいと称されるそれに彼は狂気を見た。
 
 領主の血に濡れた腕と手。その手のうちにあるのは人の魂。
 
 オーディンの脳裏に過ぎる苦痛と懇願の声をあげて崩れ落ちる人の影。その影の向かいにいる女の影。手にもっているのは。
 
 奥歯をぎりと噛み締める。血の味が口内に広がり、紫紺の双眸が怒りに燃える。
 ランダはそれをうっとりと見詰めた。
 
 魔眼をもっている人間の魂は、他の人間のそれよりも魔力の純度が濃い。だからこそ、昔、魔眼をもった人間たちの集落を襲った。いや、そうなるように領主操って殺め、当時の王に進言した。
 
 ―――魔眼には不死の力がやどっているのだと言って。
 
 当時のシュスラーレ国王は簡単に信じた。多少の暗示などの魔法は使ったが、彼は永遠の命を欲していたから。
 
 あの時得た力は彼女に多くのものを与えた。他の追随を許さない力と若さを。が、それはここに来て揺らごうとしている。
 
 先ほどの強大な力。
 
 あれを越すには今、目の前にいる男の魂、正しくはその身に宿る魔力がいるのだ。そうすれば超えられる。自分は頂点に立てるのだ。そのために力が必要なのだ。
 その想像に狂喜しながら彼女は男に向かって手の平を掲げる。同時に部屋の床全体に浮かび上がる陣。そして、魔法が起動する。
 
 ランダが恍惚と歓喜に顔を歪ませる。彼女の背後にいるトーラスが息を呑み、片腕を彼女に伸ばす。
 
「ランダ!!」
 
 
 刹那。
 
 
 ガラスを割ったような済んだ音が響くと同時に、<陣>が跡形もなく砕け散った。
 
 
 

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