暁の魔女 88


 

 視界に映るのは淡い紫色の燐光に包まれた光の粒子。
 耳に響いたのはガラスが割れるような、それでいて耳障りではない美しい澄んだ音。
 目の前に現れた小さな背中。
 
 その背中に流れる黒髪を持つ彼女を彼は知っていた。
 
「よ、よくも…、よくも!わたしの魔法を壊してくれたわね!!」
 
 呆然とした思考のふちから彼を現実に呼び戻したのはランダの憎悪に濡れた金切り声だった。
 
 強制的に<陣>を壊されれば<陣>を形成した魔法士自身にも肉体的、精神的なダメージを負うのだ。
 ランダは自分の右目を押さえている。その手の下からは血が流れていた。
 
 <陣>を壊した黒髪の少女は遠い場所を見ているような目を対峙しているランダと彼女を支えているトーラスに向けた刹那。
 
 空気、いや広間全体の空間が。
 
 
 大気が、震えた―――。
 
 
 それに巻き込まれたオーディンは壁に激突する。傷から広がる痛みを感じさせない動作ですぐさま立ち上がる。
 
 視線は広間の中央にいる少女。
 
 紫紺の双眸が驚愕に開かれる。
 彼女の全身から湧きあがる魔力が時折、不安定に揺らぐ。消えそうになり爆発したように立ち上る。
 
 彼の中で警鐘がなる。
 
 下位の魔法士や魔法を習い始めた子供がよく起こす現象にそれは似ていた。
 暴走だ。
 
 彼の思考とは別に彼女から発せられる魔力は膨張していく。周囲には魔力が吹き荒れ、小さな嵐となり、壁や天井、床を傷つけ亀裂を走らせていく。やがて、みしりと部屋全体がきしみ始める。
 
 このまま魔力を放出し続ければ―――。
 力なく横たわる痩身の姿が脳裏を一瞬で過ぎる。
 
 心臓の鼓動が跳ね上がる。
 
「この…っバカが!!」
 
 この先の結末を容易に想像できた彼は胸中の不安を消し去るように毒づいた。
 
 過去の惨劇としかいいようがない故郷の光景が蘇る。
 あの時のような思いは。もう。二度と。
 
 ランダはトーラスが張った結界によって魔力の猛威から逃れようとしている。が、少女―――白刃は優しくなかった。
 
 彼らを拘束する<陣>を構成し、その場に縫いつける。自身の周囲で荒れ狂った魔力によって拘束されたランダとトーラスは身動きできないほどに傷だらけだ。
 オーディンは焦燥を感じながら、魔力に押し戻されそうになりながら顔を庇い白刃へと足を進める。
 
「白刃!」
 
 声を張り上げる。が、白刃は聞こえないのか魔力がさらに膨張していく。
 彼が少女に近づくに連れて魔力は強くなり、彼を切り裂き猛威を振るう。頬が、足が、腕が、裂かれ鮮血が吹き出る。それすらも荒れ狂った魔力によって蒸発する。
 
 白刃まであと少しというところで、荒れ狂った魔力の嵐に紅いものが混じり始める。それを見て、オーディンは舌打ちをした。
 
 目を凝らせば白刃の腕の皮膚が裂け血が滲んでいる。
 
 体がついていかないのだ。自分の魔力の大きさに。
 
 どこか遠くを見ているように亡羊とした少女にオーディンは血に濡れた手を伸ばし、華奢な体ごと強く引き寄せる。そして、彼女がここに来る前に宿で教えてくれた言葉を搾り出すように吐き出した。魔力の奔流に焼かれるような中で。
 
 彼女に届くように。
 
 
「シェラティオナ……っ」
 
 
 
 
 
 白刃は体中に走る痛みに歯を食いしばって耐えていた。
 
 途中、誰かが罵声を自分に投げた気がしたが、その思考はすぐに霧散した。
 魔族を追って転移した先にいたのは体を、手足を、針のような細い刃に刺され、床に磔にされた青年と<陣>を展開しようとしていた女。
 
 <陣>が何であるのか、女が何をしようとしているのかなどとはどうでもよかった。ただ、血を流し、床に縫いとめられていた青年の姿が彼女の内側の何かを壊した。
 
 身のうちから溢れるものが彼女の思考を奪っていく。
 目の前に視線をやるとそこには魔族と女が結界を張っていた。
 
 あの結界はあと少しで壊れる。
 
 あと少し。
 あと少しだけで。
 
 
 殺せる。
 
 
 何かに体を包まれる。力強い温かいものだ。
 
 内側からの溢れる力に何かが壊れていく。思考や視界さえも霞がかっているようにたっているのか寝ているのかもあやふやだ。
 
 
 ―――ェ………オ……―――
 
 
 誰かが叫んでいる。何度も。悲痛な声で。
 
 いつの間にか頬に流れる紅いものを拭われる感覚に彼女はいつの間にか閉じていたまぶたをあげた。
 
 視界の端に映るのは赤。
 峻烈で鮮やかな細いそれがいく筋も風にあおられている。
 
 その下にあるのは二つの紫紺。
 歪められているその色は何か必死さと焦燥さを宿している。
 
 視線が交わる。
 
 かすかに細められた紫紺の双眸を彼女は知っている。
 これは誰。この色は。自分を支えている温もりは。
 
 
 
 ―――…ラ…ティオ……―――
 
 
 
 唇が動く。何かを言っている。
 
 何を。
 
 聞きたい。聞こえない。言って。もっと。
 
 
 呼んで。
 
 
 
「シェラティオナ!!」
 
 
 
 

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