暁の魔女 89


 

 何度も呼んだ。その名前を。
 呼吸が出来なるほど、自分の体を切り裂き、骨をきしませる魔力の奔流に身を投じながらも、抱きしめたその体だけは、存在だけは。
 
 離さないと決めていた。
 
 
 
 
 一筋の雫が漆黒の瞳から零れる。
 
 思いが届いたように呼ばれた名前。
 霧が晴れるように思考が、視界が戻ってくる。
 世界が、色を取り戻す。同時に体から溢れ、荒れ狂っていた魔力が急速に収束していく。
 
「白刃!」
 
 体から力が抜け、その場に崩れ落ちる。焦りを滲ませた声。直後、襲ってきた頭痛や体のきしみにうめく。それでも自分を支えている腕の温もりは離れなかった。
 いつの間にか流していた涙を拭っているのは紫紺の双眸を持った青年の無骨な手だ。
 
 世界で一番綺麗なその色を知っている。
 自分を抱きしめているその力強い腕を知っている。
 彼の名前を知っている。
 
 ああと声にならない声が吐息と共に空気にとける。
 
 紫紺の双眸を見て、白刃は柔らかく微笑んだ。
 
「…オーディン」
 
 かすれた声で白刃が名前を呼ぶ。
 すると痛いほど抱きしめられる。
 
 
 脳裏を過ぎるのは祖母の言葉。
 
 ―――白刃、忘れてはダメよ。これはあなたの心の鍵。あなたの秘密の名前。
 
 ―――シェラティオナ。
 
 ―――覚えておいて。あなたがこの人と思う相手にいつか出会えたときのために。
 
 
 ああと息を吐く。
 
 
 ここに来る前に宿で告げたのだ。
 彼ならば、と。
 
『もう一つの名前があるんだ』
『もう一つ?』
 
 訝しげな視線を受け止めて。笑って、言った。
 
『あたしのもう一つの名前。暁に咲く花の名前らしいんだけど…』
 
 彼ならばと告げた。
 
 その言葉。
 
 
 その言葉が。
 彼の声が、この温もりが―――自分を呼び戻してくれたのだ。
 
 覚えている。何度も何度も悲痛な声で名前を呼ばれたのも。離さないと言うように強い腕に抱きしめられたのも。
 
 目の奥が熱くなる。相手の背中を力の入らない腕で強く抱きしめる。
 
 彼の目が見たかった。あのどんな宝石よりも綺麗な色を。
 
 体を少し離し、顔を見上げる。
 そこにある瞳に安堵の色を見て彼女は泣きたくなった。思わず減らず口を叩く。
 
「ひどい顔だなぁ…」
「お前がな」
 
 間髪いれずに返された返事に笑みがこぼれる。そして、オーディンが立ち上がり、白刃に手を伸ばす。それに掴まり、よろめきながら立ち上がり周囲を見やる。
 
 広間は見るのも無残な惨状だった。
 
 床には亀裂が走り、窓ガラスは粉々に砕け散っている。壁にも亀裂が走り、一部には街が一望できるほどの大きな穴が開いている。入口辺りは壁自体が歪んでおり、扉が見るも無残な状態をさらしている。
 
「………」
 
 言葉もなく絶句している白刃の隣で、オーディンは派手にやったな程度の認識しかしていなかった。
 
 そんな風に客観的に状況を見ている二人の背後から、
 
「……ないっ!許さない!許さないっ!!」
 
 空気を切り裂くような、憎悪と怨嗟を滲ませた女の声が響いた。
 
 魔法士、ランダの状態は傷も魔力の消耗も酷かった。彼女の傍にいたトーラスはすでに気力が尽きているのだろう。体の端の方から粒子になり消えかけている。
 魔族の死とはそういうものだった。
 
「もう少しでっ…!もう少しで、力を!永遠を手に入れられたのに!!」
 
 血を吐くように叫びながらの告白は、ひどく空虚に聞こえた。
 
 
「そのために、魔眼をもった部族を滅ぼしたのか?」
 
 
 抑揚のない声がぽつりと落ちる。それは何の感情も、感傷も感じていない声だった。
 
 白刃が隣に立つ青年を見上げる。彼の顔には声と同様、表情はなかった。
 未だにつながったままの手を強く握る。
 
 紫紺の双眸と漆黒の双眸が一瞬だけ交差した。
 
 滅んでいった故郷。死んでいった家族や友たち。
 力を、永遠の命を手に入れるためだけに領主に、王に殺されていった人々。
 目の前には、もはや立ち上がることも魔法を発動することすら出来ない無力な、仇である魔法士。
 
 故郷を滅ぼされた少年は当時のシュスラーレ国王と討伐に来た騎士の一人に、秘密裏に保護され育てられた。
 決して消えない憎悪と慟哭と痛みと苦しみをその身に燻らせながら。それから傭兵となり、代替わりした王と会い、多くの人間と出会い、多くのものを知った。
 
 自分に向けられる視線は王に刃を向けた逆賊と同じ瞳を持つというだけで、迫害を表すそれではあったけれど。
 
 オーディンはまぶたをきつく閉じ、細く息を吐き出す。そして、まぶたを上げる。
 
「白刃。気絶させて拘束しておけ」
 
 白刃はオーディンを見て、こちらを貫くように睨んでいるランダを見る。そして、もう一度オーディンを見る。
 ランダを見ている青年の目にはいつものような鋭さがある。それに安堵して彼女は頷いた。
 
「わかった」
 
 そして、軽い―――一般的に見れば消耗している人間に向けるようなものじゃない程度の強い―――魔法を組みランダに放ち、その場に言葉もなく崩れ落ちた彼女を拘束した。
 
 そこで物言いたげに、おそらく魔法の威力を見て思うことがあったのだろう、自分を見ている紫紺の双眸に気付きそちらを見る。
 
「なに?」
「いや…」
「終わったね」
「そうだな」
 
 二人して息をつく。その時、
 
「おい!無事か!?」
「白刃ちゃん!?」
 
 見るのもひどい惨状となった広間の入口の瓦礫や歪んだ扉の向こうから四苦八苦しながら惨状をさらしている広間に入ってきたのはアリアや無事だったクロードやヴェスタ、傭兵達だ。
 
 
 彼らは広間の惨状を見て一様に絶句し、そして彼らは見た。
 
 
 
 崩れた壁の向こう。
 
 山の稜線から覗いた朝日を背景に、微笑を浮かべた黒髪の魔女と彼女を支えるように立つ、精悍な顔立ちの紅い髪の傭兵の姿を。
 
 
 
 
 
 ―――それは一枚の絵画のように、鮮烈で美しかった。
 
 

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