凍える心 


  それは必然だった。
 いつか来るべき時。同時に、いずれはと認識していたもの。

 

 灼熱の焔、蛇のようにうねり、荒れ狂う嵐のように猛威を振るうそれは自分たちに届く前に、まるで壁に阻まれるように空へと立ち上った。
 同時に、焔の向こうは熱気とそれ自体によって見ることすらままならない。しばらくして、熱気が収まり、潮風によって熱気が払われる。
 オーディンはすぐさま魔族の軌跡を追おうと周囲に視線を走らせ、ある一点の方向で止める。その方向にあるものに自然と目が険しく細ま―――ることはなかった。


「白刃ちゃん!」


 アリアの叫ぶような声が響き、そちらを向くと地面に仰向けに倒れる少女の姿が目に飛び込んでくる。


 左肩や服に散り、少女自身の右手につているのは紅い鮮血。
 地面に散らばる黒髪。


 少女を抱き起こすアリアの背中をどこか呆然と見ていたが、次の瞬間には弾かれたようにその場に向かって足を動かした。


 周囲をざわめきが耳を通りぬけていく。


 それは明確な音にはならなかったが、すぐさま、今までの経験から何をすべきなのかは頭が答えをだした。
 アリアが魔法士を呼んで治療させようとする傍で、彼は白刃の肩に向かって手をかざす。


「オーディン?何、を…」


 訝しげなアリアの表情が驚きのそれへと変化する。


「其は至福の中に眠る幼子の如く、安寧の揺りかごにて包まれ、其は痛みを識ことなかれ」


 オーディンの謡うような、祈りをささげるような声に周囲にいた人間は目を瞠る。それは彼が術を使った事に対する驚きであったし、また、使えたのかという感慨に似たものであった。


 クロードは珍しいことだと思いながら、呆けている部下に蹴りをお見舞いし激を飛ばす。
 白刃の肩に手をかざし、術の句を唱えるとその傷はふさがる。それを見届けたオーディンは白刃の肩を抱き、支えているアリアの驚愕の視線に動じることなくのたまった。


「こいつは俺が連れていくぞ」
「え、あ、いや…」


 アリアは戸惑いと驚きから未だ覚めやらぬといった体ではあったものの、すぐさま意識を切り替え、


「ええ、お願いするわ。それよりわたしの怪我も診てほしいわね」
「断る。中身を見てもらえ」
「あら失礼ね。しかも即答だし」


 残念などと両肩をすくませおどけるアリアを一顧だにせず彼は少女の体を軽々と抱き上げた。


「アリア」
「あら、クロード団長さま」
「嫌味か?」
「ふふー。わかっているじゃなぁい」


 アリアの傍まできたクロードに軽口をたたきあう。クロードは嫌そうに顔をしかめ、気を取り直すように嘆息し、オーディンに向き直る。


「オーディン。取りあえず、宿に戻ろう。魔族は消えたが、上位の魔族が出張っているとなればまた作戦も考えないといけない。それに…」


 クロードは一旦、言葉を切りその隻眼を細めた。


「お前、何か掴んだろう?」


 にやりとゆがめられた口にオーディンは何の変化も見せず「ああ」とだけ答え、そのまま歩き出す。


 その姿にクロードとアリアは顔を見合わせた。


「何かあったのか?」
「いや、別に。白刃ちゃんが怪我したのが気に食わないんじゃない?」
「…………」
「…………」
「…オーディンだぞ?いや、確かにあのお嬢ちゃんには優しいかもしれないが…。あ、の、オーディンだぞ?」
「…有り得ないわね」


 いつもなら「目ざといな」や「お前は鼻が利く犬か」などと皮肉が帰ってくるのだが、すんなりと頷いたオーディンに、宿への帰り道、彼らは首をかしげるばかりだった。

 

 

 

 腕の中にいる少女は身じろぎもしない。安心しているのか、単に恐怖や疲労で気を失ったのだろう。というか、自分に対して今まで警戒というものを彼女がしていたことがあっただろうか。


 幼くあどけなく見える少女の寝顔。
 脳裏に過ぎるのは先ほど、自分が治した傷。服は傷の名残でもある紅い血で染まっている。


 ―――彼女が傷を負った。


 だが、彼は傷を負っていない。
 彼女が傷を負った事にすら気付かない。
 視覚の問題でなくて感覚の問題でもない。それは彼らの間では≪必然≫だったのだ。だのに。


 ―――彼の体には傷がない。


 彼女が負った傷が。


 同じ場所にあるべきものが、ない。


 いつかは、と知っていた。


 王城の魔女が言っていた。いつかと。
 もう、とも、まだとも言えない。ならばなぜこんな風に思うのだろうか。傷を、彼女の異変を、察知できない。


 それが、酷くもどかしいなどと。
 歩きながら、腕に少女を抱き上げたまま自問する。


 恐れているのだろうか。
 何を。
 失う事を。
 誰を。
 その前に、この事に気付いているのだろうか。この腕の中の。


 そこまで考えて彼は我に返る。


「………下らない」


 自分に向けたあざけりの言葉に、彼は笑った。それが自嘲を含んでいることに気付けないまま。胸にある想いに未だ答えを見つけられないまま。
 ただ、その腕の中にいる少女の温もりを感じていた。

 

 


 時間は誤魔化しようがない事実と現実を人へと突きつける。


 それが、どんなことであっても。
 そして、時として人は事実と、その事実が突きつける現実に初めて胸の奥底に眠った想いに気付くことがあるのだ。


 それが何かを失くした後だったとしても。
 

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