08
午後からの日差しが窓越しに教室へ入ってくる。
五月の半ばを過ぎればその日差しも春のそれとは違い、少し暑く感じる。それでも教室の中は世界史の授業ということもあって数人の生徒が眠りこけていた。
そんな中、一妃はぼんやりと外を見ていた。もちろん授業の内容など頭の中には入ってこない。
食堂での会話。
知ったのはあの時の男の名前。
脳裏を過ぎるのは昨日のこと。
* * *
あっという間に十数人を倒した男は息を切らすことなく、ただ冷たい視線を地面に倒れている連中にやっただけだった。
一妃はその様子を呆然と見ていた。
男はただ無慈悲に拳を振るいねじ伏せていた。一人が地面に倒れれば次を、それが終わればその次をとその動きは獲物を求める獣のようだった。
静のように薄笑いを浮かべて楽しんでいるようなものではなく、冷静でいて酷く鋭い空気を纏う。それでいて体は次の獲物をと動くその様子に一妃は目を奪われた。
ただ一人だけたたずむ男の背中は酷く冷たい。
気づけば声に出していた。
「…きれい」
その声が聞こえたのか、男が肩越しに一妃をみた。彼女ははっとする。体に恐怖とは別の緊張が走って固まる。
男はそんな彼女に頓着することなく、そのまま公園を後にした。
一妃はその背中をただ見送った。
* * *
黒崎朝葉。
静があんな風に人のことを言っていたということは知り合いなのだろう。珍しいことに。
天城静という男は好き嫌いがはっきりしている。面白いことにはとことん首を突っ込むし、つまらなければ冷たく切り捨てるといったような感じだ。
人も同じだった。
使えるか使えないか。あるいは面白いか面白くないか。
一妃とは幼なじみということもあってそんな基準にはおいていないだろうが、人のことをあんな風に笑顔で言うことは珍しかった。
そこまで考えて視線を右斜め横の方へ向ける。
そこにいるのは美少女である親友だ。
綺も『黒崎朝葉』という人物を知っているらしかった。しかもあまりいい印象は持っていないように一妃には感じられた。
実際にあの後。
『いい、一妃。そいつには近づいたらだめよ』
『なんで?』
『いいから。ダメよ。絶対に』
『いや、でも…』
『一妃』
『……ハイ』
訝しげに首をかしげる一妃に綺は必死の形相で念を押してきたのだ。
なぜダメなのか分からないが、あのときはああしとかなければ後が怖い。
お母さんかと思いながら一妃はため息をつく。
近づくもなにもまた会うのかどうかも分からないのにと胸中で呟いて、視線を黒板に戻すのだった。
その呟きが現実になるとも知らずに。
* * *
ゆっくりと吐き出された紫煙が空気にじわりと溶け込む。
その様子を見ていた静はその場に入ってきた悪友を見てにんまりと笑った。
午後の授業がとっくに始まっている時間にも関わらず、彼は慌ててきた様子などどこにもない。
場所は旧校舎の奥の教室。陽の光りがあまり届かず、空気もどこか湿気を含み古い木の匂いをさせるこの場所は彼らの格好のサボり場だった。
「重役出勤だな」
「………」
静の揶揄にも悪友の彼は眉一つ動かさない。がどこか不機嫌そうなのは静だから分かることだった。
「昨日はごくろーさん」
「…お前のせいだろうが」
同じく制服のズボンのポケットから出した煙草に火をつけながら彼が小さくぼやく。
「そうか?もともとお前の方にも手出す気だったんじゃないか?」
俺ら人気者だしと嘯(うそぶ)く静に悪友である男はため息をついた。
脳裏には昨日の喧嘩が浮かんで消える。
同時に、浮かんだ人物。
喧嘩とはほど遠い一つ年下の女。
そのときの彼女の姿がなぜか記憶に残っていた。それが別になんでもないことのように彼は―――黒崎朝葉は紫煙を吐き出した。
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