11

 

 最悪のことを想像した彼女の耳に鈍い音が響くと同時にぐぐもった男の声が届いた。
 
「…え?」
 
 腕を掴んでいた手が力を失い、そのまま下へとずり落ちる。それを追うと男がその場所に崩れ落ちていた。
 うずくまっているところから、どこか殴られたのだろう。
 
 男を挟んで彼女の真向かいにいるのは。
 
 黒髪から覗く鋭い漆黒の目。
 
 一妃の双眸が真ん丸く見開かれる。
 
 公園の喧嘩。
 つい昨日会ったあの男が日当たりの悪い路地の影に溶け込むように、そこにいた。
 
 うずくまった男のうめき声に我にかえった一妃は周りを見渡し、目の前の男をもう一度見る。
 
「ありがとう。助かった」
 
 そうかすかに笑ってそのまま男と反対側に走り去ろうとした、が。
 
「へ?」
 
 がしとつかまれた腕。
 掴んだのは男の手。
 
 そのままぐいと引っ張られ別の方に引きずられるように連れて行かれる。
 
「え?え!?あの、ちょ、ちょっと、えぇ!?」
 
 戸惑う一妃の声が遠くに聞こえる路地の中で、倒れた男が緩慢な動きで自分のケータイを手にした。
 
 街の少し小さな通りに路地から出た二人は、そのまま雑踏の中を進む。
 男の歩幅は大きく、その上、腕を捕まれている一妃は息を切らせながら必死でついていく。
 
 この時、一妃には警戒などという言葉は頭になかった。
 静がこの人物のことを言っていたせいもあるが、昨日の喧嘩で彼は少なくとも一妃を傷つけようなどという連中とは違うと分かっているからだ。
 
「いたぞ!」
「黒崎も一緒だ!」
「追え!」
 
 後方からの叫び声に一妃が慌ててそちらを向くと、数人の男たちが路地やら店から出てきて彼女たちに向かってきている。
 
「ヤバっ」
「こっちだ」
「わっ」
 
 引っ張られ再び路地に走りこむ。
 一妃はそういえば声を聞いたのは初めてだなと頭の片隅で思ったのだった。
 
 
 
*   *   *
 
 
 
「はぁ?」
 
 ケータイから聞こえてきた言葉に北桜の≪キング≫はめったに見られない間抜けな顔をした。
 ケータイの向こうの後輩もどうやら戸惑っているらしく、口調がたどたどしい。
 ≪キング≫こと天城静(あまきしずか)は後輩にそのまま追いかけることを告げ、移動する車の座席に寄りかかる。
 その口には笑みが自然に浮かんでいた。
 
 それは別の場所にいる男も同様だったけれど。
 
 
 
*   *   *
 
 
 
「どういうことだ?」
「俺らもよくわからないんですけど、どうやら黒崎が例の女を連れて逃げているみたいです」
「へぇ」
 
 今まで吸っていた煙草を口から離し、顔にガーゼを貼っている男はにやりと笑う。
 獰猛に。
 
「いいじゃねーか。面白い。天城だけじゃなくて黒崎まで釣れるとはな」
 
 その歯をむき出しにして笑う男に後輩の男が怯えたように顔をこわばらせる。
 その様子さえ男には喧嘩前の高揚を高めるだけだった。
 男はガーゼをむしりとるとそのまま地面に投げ捨てた。
 
 駅前の大きな時計の針はすでに午後十八時をさしている。
 空は夜の色へと変化し、駅前の通りは会社帰りのサラリーマン、OL、高校生や主婦などといった人で溢れている。
 
 煙草を投げるとそれを踏みにじり顔を上げる。
 
「いくぞ」
 
 彼は腰を上げ、傍にいた仲間を引き連れ近くに止めていたバイクにまたがった。
 
 
 
*   *   *
 
 
 
 路地を抜け、林道を走って抜けて出た場所は一妃が来たことがない場所だった。
 何もない広場。
 フェンスや木の低いベンチのようなものがあるのを見て、おそらく草野球やサッカーで使われる場所なのだろうと思っているとどこからともなく爆音がとどろき、徐々に近づいてくる。
 音がすぐ傍まで来たときには、広場の入口らしき場所に何台ものバイクが停まっていた。
 ライトがまぶしく一妃たちを照らし、彼女は顔をしかめた。バイクから人が降りて、広場へ入ってくる。
 一定の距離で先頭にいた男の足が止まる。
 
「昨日は世話になったなぁ、黒崎ぃ」
「…兼近」
 
 向き合う二人の間に流れる空気に一妃はこんなことになった元凶に胸中で悪態をついたのだった。

 

 

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