25

 

 
 胸の内にくすぶる、その感情の名前など知らない。
 
  
 
 鉄パイプの転がる澄んだ音が喧騒と怒号に掻き消される。
 顔を狙ってきた拳を流して、勢いを利用して転ばせる。そのまま鉄パイプを振りかざしてきた相手の懐に入り、腹に拳を入れながら壁に叩きつける。仲間の惨状を見た男の一人が、顔を怒りで真っ赤にしながらも向かってくるのを無感動に見ながら、そのぴりぴりとした緊張感の中へ身を躍らせた。
 
 ―――冷たい目には不釣合いな、凄絶な笑みを口元に浮かべて。
 
 
 
 
*     *     *
 
 
 
 
 その喧嘩はすぐに片付いた。最後の一人の顔を壁に向かって、無慈悲にも叩きつけて。
 
「荒れてるなぁ」
 
 聞こえてきた声は誰か確認しなくても分かる。それほどにまで彼は、その人物のことを知っている。
 
 繁華街のネオンをバックに路地の暗闇へと入ってきたのは、すらりとした長身に茶色の、色素の薄い髪、飄々とした笑みを浮かべた青年。Tシャツに長袖のシャツ、黒のパンツというありふれた格好が、嫌味なほどにその男の魅力を引きだしていた。
 その青年の後ろから、青年の後輩たちが彼の足元に伸びている連中を片付けようと慌しくしく、けれど迅速に動き始める。
 
「何のようだ」
 
 抑揚の無い声は、喧嘩をして高ぶっている証拠だ。それを知っている男、天城静はどこか呆れたように苦笑した。そして、彼の足元に伸びている連中を見る。
 
「うちのチームのチビたちが報告しに来たんだよ。そいつら、うちのチームに前、喧嘩売ってきたバカたちだからな」
 
 付け加えられた説明に、計らずしも厄介ごとに首を突っ込んだようだ。それに彼―――黒崎朝葉は舌打ちをした。
 それを見て、静はおかしそうに笑う。
 
「安心しろって。もう片はついてる。ただ、目はつけられるだろうな。……当分は周りに気を配ることだ」
 
 面白そうに笑みを浮かべている悪友を彼は睨みつける。朝葉と静の周りにいる静のチームの連中が、二人の間に流れる剣呑な空気に、戦々恐々としている。それでも片付けの手を止めないのは静の教育の賜物か。
 
「何が言いたい」
 
 朝葉は基本的に、静のチームや他の連中と一緒にいない。いわば、どこにも属してないのだ。だからこそ、静の言う周りを気にする必要など彼にはない。それにも関わらず、そう静が口にするということは。
 
「相手だってバカじゃない。お前がそうでなくても、ツケは周りにって、こともあるだろ」
 
 朝葉の目が鋭さを帯びる。そこにあるのは苛立ちだ。
 
「俺が誰のことを言ってるか分からないほど、バカじゃないだろう」
 
 静が黒のパンツのポケットから煙草を取り出し、火をつける。吐き出される紫煙が暗闇に消えていく。
 そういって朝葉を見ると、先ほどまで鋭さを帯びていた目が、不意に揺れた。そこにあるものを正確に読み取って、静は決定的な一言を発する。
 
「怖いのか」
 
 にやりと笑む。それに朝葉が怒気も露に静を睨み付けた。その空気に、眼光に周りにいた不良たちが顔色を悪くすると同時に、恐怖と怯えの色をその顔に滲ませる。
 
「怒るなよ。ただ…気をつけておいた方がいいぞ。あらかた片付け終わったみたいだな。行くぞ」
「はい」
 
 煙草を吸いながら、忠告じみたことを口にして、静がきびすを返し後輩を連れてそのまま雑踏に消える。
 朝葉は言葉に出来ない苛立ちを感じながら、そこにまだ静がいるかのように虚空を睨んでいた。ぎりと唇を噛み締めると、どこか血の味がした。
 
 
 
*      *      *
 
 
 
「暇だ」
 
 呟きは、相手の耳に届いてしまったらしい。
 一妃の部屋で丁度、お茶の準備をしていた秋名は、苦笑した。
 
「我慢してくださませ。怪我をなさっておいでなのですから」
「もう治ってるよ」
 
 そう、体育祭のあった日。学校から帰ってきた一妃の姿に秋名が悲鳴を上げた。
 
 それもそうだろう。
 たかが、学校行事。膝をすりむいたりといった怪我はあるだろうが、一妃のそれはあまりもの酷かった。わが子のように一妃を思っている秋名としては、その怪我の酷さにすぐさま病院へ連れて行こうとしたほどだ。全力で止めたが。
 もちろん、それは父親へとすぐに連絡がいくのは当然で。
 
『しばらく、大人しくしてなさい。出来なければ外出禁止の上に、毎日の送迎に加えて、護衛、つきにするからね。それは嫌だろう?』
 
 などと、胡散臭い笑顔で言われてしまえば、一妃に拒否権はない。
 
 やるといったらやる。そういう父親だ。それは一妃を思ってのことだとかわっているため、彼女は苦笑するしかない。
 秋名が入れてくれた紅茶を飲みながら、ふと脳裏に浮かんだものに目を細めた。
 
 拒絶するように逸らされた視線。
 
 悲しい孤独な背中。
 
 今まで、学校に行けば見ていた姿は、ここ数日のうち見てない。登下校で、自分の隣を見て、誰もいない空間に物足りなさを感じる。
 それが何なのか一妃には、未だに理解できなかった。だた、逸らされた視線を思い出し、かすかな痛みを感じるだけだった。
 
 
 
 
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