26
しとしと、と降る雨は、今の自分の心情のようだった。
体育祭が終わり、夏本番ということもあり、空気は湿気を含み暑さを増していた。それでも北皇高校は私立なだけあって、冷暖房完備なために、夏のへばりつくような湿気や暑さもそこまで気にならない。
窓の外を見ながら一妃はぼんやりしていた。
教室内は休憩時間ということもあって、ざわついている。いつもなら綺が話しかけてくるのだが、彼女は今、日直のために先生に良いように使われて―――ノートを集めてくるように言われ―――ここにはいない。
空の色は曇天といってもいい位の黒く分厚い雲に覆われている。しとしとと降っている雨がいつ大粒の、それこそ通り雨のような激しいのに変わってもおかしくないような天気だ。
帰るときが大変だなと思いながら、校門の方を見ていた一妃はそこに見えた人影に、席を立ち上がり、慌てたように教室を出て行った。もちろんその姿をクラスメートたちが不思議そうに見ていたのには、気づかないで。
どうしても気になった。
どうしても聞きたかった。
なんでだろうと思う。どうしてこんなに走っているんだろう。もう少しで、授業が始まるのに。
階段を駆け下りる姿は、何かに急かされているかのように、彼女は走った。向かう場所は二年の靴箱のある昇降口。
その場所に来たとき、目的の背中は渡り廊下の方にあった。気づけば足が勝手に走り出して、手を伸ばして。
衝撃。
掴んだ紺色からはかすかな紫煙の香りと戸惑うような空気。
一妃は思わず呟いた。
「…ぃ…で」
声にならないような小さな声は、彼にも聞こえていた。が、しばらくして聞こえたのは―――。
「離せ」
冷たい低い声に、一妃の肩が揺れる。彼女は服に埋めていた顔をゆっくりと上げた。その先にあった顔に、一妃は息を止めた。
声と同じような冷たい顔。冷たく凍えるような視線。そこにあるのは確かな敵意に似た拒絶。
どうしてだろう。なぜ、そんな顔をしているのだろう。どうして、そんなに。
「離せ。俺に…近づくな」
一妃の手が力を失って離れる。彼は、呆然とした彼女の視線から逃げるように視線を逸らす。その時、一妃は見た。目を瞠る。
そのまま歩いていく背中を彼女は、ただ見送るしかなかった。
手が離れたときの、冷たい目に走った痛みを耐えるような色。それを彼女は見た。
どうしてと唇が動く。しかし、それは音にならず。ただ、一妃の耳には朝葉の言葉が響いていた。
その彼女の背中を、睨み付ける視線に気づくことなく、彼女は綺が探しに来るまで強く地面を打つ雨の世界にいた。
* * *
最近の自分はどうかしている。そういう自覚が彼にはあった。
理由は―――わかっていた。
この間の体育祭のときのことだ。
付き纏っていた女を引き剥がしていると静に会った。
『ちょっと、いいか?』
そのときの笑みに、いい予感はしなかったものの、言われるがままグラウンドから離れた場所にある倉庫へと向かう。そこで目にした光景は―――。
思い出したくないように彼はかぶりを振る。
どうかしていたのだ。
あまりにも、彼女の目が普通だったから。自分に向けられる視線と違ったから。
勘違いをしていたのだ。
怯えなどない、屈託の無いその視線に慣れてはいけなかったのだ。恐れないその目を普通だと思ってはいけなかったのだ。
そう思って距離をとった。
なのに、その相手は。
先ほどまで自分の腕を掴んでいた手を思い出す。走りよってきたその人は。思い出すのは美しく妖艶な女たちの顔。
『わたしは大丈夫。怖くないわ』
『辛かったでしょう?もういいから』
そう慈愛に満ちたような笑顔の裏には、何もない。ただの自己満足があっただけ。自分の周りに群がる女とはそういうものだった。
口では愛情を囁くくせに、その目には確かな怯えや恐れがあった。それに気づいたとき彼は嘲笑したのだ。
なにが大丈夫だというのだろうか。何が辛いというのだろうか。彼女たちに。自分の何が。
『本当は優しい人って、わたしは知っているわ』
虫唾が走る。
何がわかるというのだろうか。口先だけものなどいらないのだ。腕を掴んできた彼女も同様だ。
結局は同じだったのだ。誰も彼も。
彼女でさえも声をかすかに震わせていたではないか。
くと喉の奥で笑う。それは自嘲じみた笑み。
愚かなと、浅はかなヤツだと自分を嗤うそれ。
だけど、彼は知らない。一妃を拒絶したときに彼女に見せた顔を。
痛みを耐えるような顔をしたことに。
彼は、気づかなかった。
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