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その名前を呼んでも、届くことはないと知っているけれど。
衝撃はなかった。逆に聞こえてきたのは。
「い!ぐ、離せ!!離っがっ!!」
男の絶叫に似た懇願の声とうめき声。体の上の体重が消えたことに、一妃は呆然としながら体を起こす。
「え」
目に入った光景に彼女は思わず、間抜けな声を出していた。
目の前には、殴られて鼻血を出している学ラン男。その男の頭をわしづかみにしているのは、紺色のブレザー姿の制服の―――スキンヘッドの男。
まさか。
記憶が一気に駆け巡り、そのスキンヘッドの男を凝視する。その一妃の視線に気づいたのか、スキンヘッドの男が彼女を見た。
「あんたか」
「離せ!くそっ!離せ!!」
「うるせぇっ!!」
途端に悲鳴が上がる。凶暴な顔をしたその男に怒鳴れた学ラン男は、顔面に拳を受けながら怯えているのか腰が引けている。
「で、こつは知り合いか?」
「全然!!」
声をあげて否定した一妃にスキンヘッドの男―――以前、静と朝葉にボコボコにされた男―――兼近賢介(かねちかけんすけ)は学ラン男から手を離す。すると、その男は脱兎の如く、走り去っていった。
一妃はその背中を見送り、立ち上がる。制服がどろどろだ。それにまた怒られるなと思いながら顔を上げると兼近と目が合う。
「ありがとうございます」
一妃のお礼に、相手は顔をしかめた。それを訝しげにみると兼近は顔を背けた。
「別に通りかかったら、押し倒されているのが見えた。それだけだ」
「はあ。まあでも助かったんで…」
言葉を切らせた一妃を不審に思ったのか、兼近が眉を寄せて彼女を見て―――ぎょっと目を剥いた。
「お、おい!どうした!?どこか痛いのか!?」
一妃は泣いていた。その目からはらはらと涙を零しながら。嗚咽はかみ殺して。
兼近の仰天したような、焦ったような声を聞きながら、泣いていた。
怖かった。血の気が引いた。もうだめだと思った。それで泣いているのではない。あの恐怖の間際に感じた危機に、思い浮かべた背中に、名前に打ちのめされている。
近づくなといわれたばかりの、その人を。
どうして、その人だったのだろう。
どうして。
「…っば…」
「あ?」
兼近が眉を上げて一妃の呟きを聞こうとする。繰り返すその言葉を聞き取って彼は驚きを露に、顔を覆い小さな嗚咽を漏らす少女を見下ろす。一妃はそんな兼近に気づかないまま泣いていた。
痛い。いたい。イタイ。傷ついたような彼の顔がまぶたの裏に浮かんで消える。
どうして、あの人の名前だったのだろうか。わからない。
ただ、わかるのは。
それだけ、その人が自分にとって、大きい存在だったのだということだけだった。
* * *
兼近賢介は目の前の男を中心にして、その場の空気が一気に下がったのを感じた。彼らがいるのは、人が滅多に来ない旧校舎の教室の一つだ。
「……もう一回、言ってみてくれないかなぁ?兼近?」
兼近は、男の目が笑っていないことに気が付き、やっぱり言わないほうが良かったかと思ったが、後の祭りだ。そうヤケクソ気味に口を開いた。
「だから、お前の女だっけ?幼なじみか知らないが、昨日、襲われてたぞ」
「で?」
「でって?」
鸚鵡返しに聞いてく兼近に、男、天城静の目が冴え冴えと冷めていく。
「そのまま見ていたのか?」
その言葉に兼近は血相を変えた。このままでは、自分がやられる。目の前の男に。
「んなわけあるか!そういのは嫌いだしな、不本意だったけどな」
「さーすがだねぇ。兼近ちゃん」
ころっと、いつものように笑う静に兼近はため息をつきたくなった。この間の喧嘩以来、以前ほど犬猿の仲というわけではなくなったが、どうもこの男は受け付けない。さっさと済ませようと兼近は続ける。
「襲ったのは南皇のやつだった」
「へぇ」
笑みの質が、変わる。飄々としていたそれから、獰猛な、冷酷さを浮かべたそれに。それを見た兼近は畏怖に近いものを感じながら、同時に、こういう男だからこそ≪キング≫と呼ばれるんだろうとも思う。
「誰かわかるか?」
静の問いに兼近は首を横へ振る。
「いや。…黒崎とあの女どういう関係だ?」
静の目が兼近の質問に、すうと細くなる。それに兼近は体を硬直させた。
「どうしてそれを聞く」
問いかけではなく、威嚇に似たそれ。兼近はどうしてそう静が聞くのか分からず、戸惑いながら昨日のことを話した。少女が泣きながらその男の名を言ったことを。
静は「そうか」と呟き、伏せた目に複雑な色を過ぎらせた次の瞬間には、いつもの笑みを浮かべていた。そのギャップに兼近は肩透かしを食らったような顔をする。
「まあ、教えてくれてサンキュー。悪かったな」
「い、いや、別に…俺は、」
静の謝罪に兼近がしどろもどろに返すと、彼がにやりと笑った。その笑みに思わず兼近は身構える。
「照れてんのか?賢介チャン?」
「てめぇ!ぶっ殺すぞ!!」
怒鳴りながら、やっぱりこの男は嫌いだと思った兼近だった。
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