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「ここの公式が……」
「ああ、そうなるんだ」
「………」
「朝葉、頭いいねぇ」
「………別に」
 
 机の上に広げられた教科書とノート。向き合っているのは二人の男女だ。
 一人は、キャミソールにパーカーを羽織り、ショートパンツとレギンスを合わせサンダルを履いている少女。もう一人は白いカッターシャツに黒いパンツ、そして腰にはエプロンをしている青年。
 
 二人がいるのは、北皇高校の最寄の駅より南にあるこじんまりとした喫茶店だった。
 しきりに感心しながら問題を解いていく少女を見ながら、ふと視線を店内にやる。そこには微笑ましくこちらを見やるいくつかの視線。
 
 青年―――黒崎朝葉の目が鋭くなる。
 
 朝葉は叔父の敦樹が営んでいる喫茶店で、バイトをしている。休日であるこの日も例外なく。だったのだが。
 
「俺が変わりにやるから、こいつの勉強みてくれ」
 
 そういってきたのは、イヤに上機嫌かつ面白そうな顔をした悪友。
 断ろうとしたが、叔父の敦樹が。
 
「変わりにやってくれるのならいいよ。奥の方を使いなさい。まだ、込むのは先だろうしな」
 
 その一言で、こうなっているわけで。
 
 朝葉は思わずうなだれる。すると前からおずおずとした声が聞こえてきた。
 
「あの、朝葉、ごめんね」
 
 謝る一妃を朝葉は訝しげに見る。一妃は困ったように笑った。
 
「静から電話で、教えてくれるっていうから来たんだけど、まさか朝葉だとは知らなくて」
 
 つまり。
 
 静が彼女を連れ出したのだ。勉強を教えてやるといって、自分の下に。今日がバイトだと知っていて。
 
 喫茶店の奥でにこやかにグラスを並べている悪友を睨みつけると、視線に気づいた当人はにやりと笑う。
 
 ちなみにその様子を敦樹や初鹿野が微笑ましいものを見るような視線を向けているのは、意識の外に追い出している。
 
「わかったか?」
「うん。大体…は」
 
 言いよどむ彼女に朝葉はその目を緩めて、どこか穏やかに答えた。
 
「また、わからなかったら聞きに来ればいい」
「いいの?その迷惑とかじゃない?」
 
 戸惑いながら聞いてくる一妃。朝葉の返事はそっけなかった。
 
「迷惑なら言わない」
「ありがとう」
 
 朝葉の不器用な言葉に、一妃が仄かに頬を染めながら、嬉しそうに顔を綻ばせる。それを見て、朝葉は穏やかに笑みを浮かべる。
 
 
 その様子を敦樹が穏やかに見ていた。
 静が敦樹の横に立ち、声をかける。
 
「安心しましたか?」
 
 静は彼に敬語を使う。それは静という人物が、この「黒崎敦樹」という男を人間として、男として尊敬し敬意を払うに値すると判断したからだ。
 敦樹がその甥と似てない茶色の瞳を静に向ける。その顔にはどこまでも深い慈しみと安堵の色がある。
 
「やっとだと思っているよ」
「そうですか」
 
 やっとだと、敦樹は思う。
 あの孤独を抱えた、自分と血がつながった家族のことを彼は心配していた。
 
 実の両親が死に、施設にいた彼を引き取ったのは他ならぬ、当時、海外から帰国した叔父である敦樹だ。幼いといっても過言でない年に、周囲の環境のためか彼はすでに孤独だった。
 
 施設にいる子供に向けられる視線は、あまりにも冷たかった。それが両親を失った幼い子供の心を深くえぐっていった。
 誰も寄せ付けなかった。誰かと関わることもしなかった。誰かのために動くなど、論外だといわんばかりに。ただ、凶暴な衝動だけを抱えていた。
 
 感情を表に出すことなく、冷めた目で他人を見ていた彼が、穏やかに笑えている。それは、間違いなく彼の悪友や、今彼と一緒にいる少女のお陰だといえる。
 
「うお!?朝坊!なにするんだ!?おにーさまに向かって!」
「うるさい。誰がおにーさまだ」
「あさぼうって…」
「幸紀、お前黙れ」
「朝葉のことだよ。かわいいだろう?」
「はい」
「―――――っ!!」
「うお!?悪い悪い、俺がわるかった!!」
 
 視線の先で、初鹿野が朝葉をからかい返り討ちにあっているのを見る。一妃は困ったように、だけど可笑しそうに笑いながらじゃれあう初鹿野と朝葉を見ている。
 
「静くん」
「なんですか」
 
 敦樹の隣でグラスを洗っている静に彼は、声をかける。悪戯を思いついた子供のような笑みを浮かべ、続ける。
 
「おいしいケーキがあるんだ。食べないかい?あの子たちも一緒に」
 
 静は普段の飄々とした笑みを浮かべる。
 
「朝葉をからかう気満々ですね」
「これくらいしか楽しみがないからね。それに幸紀くんだけずるいじゃないか」
「まったく…」
 
 静が呆れにもにた息をはく。どこか嬉しそうに、面白いものを企んでいるような顔の敦樹に彼は胸中で呟いた。
 
 
 分かりにくい愛情表現だな、と。
 
 

 

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