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何が一体どうなっているのだろうかと彼は、今の自分の状況を再確認した。
右側には、いかにも社長室といった優美だがどこまでも頑丈な両開きの扉。左側には夏の暑い日差しを遮るブラインド。その向こうには思わず感嘆するほどの夏の高い澄んだ空が広がっている。思わずそちらに現実逃避したくなるが、そうは言ってられない。
―――なぜなら。
自分の背後にはいかついどころか、自分よりも無表情な顔をして直立不動かつ黒いスーツにその細くも屈強な体躯をした―――悪友ではないが機械かこいつらと思わせるような―――男がいるのだから。
朝、いつものように登校し、駅前でいつものように彼女の待っていると突然、呼び止められた。
『黒崎朝葉さまですね?』
その緩やかにカーブした髪の毛を纏め上げ、スーツをぱりっと着こなした美女に思わずうなずくと、すぐさま屈強な黒いスーツの男に車に乗せられここにいる。
悪友の関係かと一瞬思ったが、ある会社の駐車場に入る車の車窓から見えた名前に、自分の目を疑いたくなった。
―――舞咲カンパニー本社。
正直、帰りたいと思ったのは言わずもがな。
舞咲といえば、知り合いに一人しかいない。
脳裏に浮かぶ一人を思う。昨日のごたごたで、かなり疲れている様子だった彼女を事が片付くとすぐに家まで送った。
ここまででいいという彼女を放っておくことなどできなくて。
フラッシュバックする言葉。
『朝葉を一緒にするな!』
意外な一面をみたという驚愕よりも、なにより胸を満たしたのは―――。そんな思考にふけっていると、扉が開いた。
そちらに視線をやると背後の男たちが、入ってきた男に一礼するのが判った。自分もするべきかという考えが一瞬、脳裏を過ぎるが、すぐにやめた。そんなことをするような性格ではないし、そんな立場でもないのだ。
「ああ、ご苦労様。ありがとう。もういいから」
そうねぎらいの言葉を黒スーツにかけた男に再び一礼して男たちが出て行った。部屋には紺色の着崩したブレザー姿の青年にスーツ姿の壮年の男だけになる。
「さて、と」
そう一息ついた壮年の男が青年の目の前のソファに座る。柔らかいソファは男の体重を受け止め沈む。
青年は―――黒崎朝葉は、目の前の男を見た。相手はその視線を受け止め、朗らかに柔和に笑った。
「初めまして。黒崎くん。わたしは舞咲壱尭。この舞咲カンパニーの総帥を務めているものです。そして、一妃の父親です。よろしく」
向けられた笑みを見て、よろしくじゃないといいそうになったのは誰も責めないだろう。
本来なら学校でつまらない授業に出ているか、サボっているか、はたまた他校の絡んできた連中と喧嘩の真っ最中名時間帯。なにがどうなってこんな状況になっているのか、朝葉は、その考えを放棄した。
「ああ、コーヒーの方がいいかい?それとも紅茶?お菓子もあるから食べていいよ」
柔和な笑みを浮かべている壮年の男を前にしたら現実逃避などかわいいものだとも思えてくる。
「いえ、俺はいいです」
「そうかい?コーヒーは僕のお気に入りなんだけど。挽いているヤツなんだ。飲まないかい?」
朝葉はその言葉に迷った。本当に何がしたいのかわからない。この人は。
「じゃあ、コーヒーを」
そういうと嬉しそうに自分でコーヒーを入れ始める。それ自体、ここに来るまでに見た秘書の人たちのすることじゃないのかと考えたが、この人にとってはそれが普通らしい。
「どうぞ」
目の前に置かれたコーヒーに朝葉は軽く頭を下げながら、お礼をいい口をつける。すると口に広がる苦味は、自分の叔父がやっている喫茶店のものよりもおいしい。どこのなのだろうかと思考の脱線にも目を瞑っていると。
「で、一妃とはどこまでいったの?」
「ぶっ!」
「ああ、大丈夫かい?」
コーヒーを噴出さなかっただけマシだった。噎せる朝葉に壱尭はにこにこしながら尋ねる。絶対に今のはわざとだと恨めしく思いながら、相手を見る。すると一妃の父親は、相変わらずのにこにこ顔でのたまった。
「もしかして、いくところまで…」
「あんたアホか!!」
思わず素でそう叫んでいた。それを聞いた壱尭はけらけらと笑う。
「いいねー。そういう反応。……弄くりまわしたくなる」
朝葉の目をとらえる、鋭くも厳しい視線を真っ向から見返す。低くなった声にまとう空気は硬質になり威厳と呼べるものを放っていた。
壱尭は内心で、にやりと笑った。面白い獲物を見つけた獣のように。
「でも、もしかしたらと思うのは当然じゃないかい?」
ソファを立ち上がり自分の重厚な机に向かう。その背中に朝葉の視線を感じながら。
机の上にあるのはA4サイズの茶封筒。手に取り、書類をだしながら朝葉の元へと戻る。朝葉はそれが何であるか分かっているようだった。
鋭い子は好きだと思いながらその中身が見えるように朝葉の前、ソファに挟まれている机の上に置いた。
「喧嘩は日常茶飯事、後腐れない関係を続けられなくなった女は即、切る。群がってくる子には容赦なんてしない。暴走すれば誰も止められない。血に飢えるように相手を完膚なきまでに叩き潰す。最強の男。いや、最凶かな?果てに付いたあだ名が“狂犬”。いやーすごいね。黒崎くん」
「何が、言いたいんですか?」
机の前に寄りかかり、腕を組む壱尭。朝葉は目の前に広げられた自分の素行調査を何のこともないように見やり、壱尭を見る。
すると、壱尭は笑った。そうとても楽しげに、それでいて鋭く怜悧な笑みを。
朝葉は、その表情に静よりも数百倍、性質が悪いなこのおっさんと正直な感想を漏らしていた。
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