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過去。
あの荒みきった日常。
すべてが、自分に向かってくる刃のようだった。―――優しささえも。
それでも。
あの時があったからこそ、今の自分がある。分からなかったものを、決して手に入れることなどないと思ったものを与えてくれる、与えてくれていたのだと気づかせてくれた存在たち。
そして、今。
大きな変化が起きている。それの根本にいる存在たち。
朝葉の脳裏に浮かんでは過ぎていく、いくつもの顔。かけられた言葉たち。それを噛み締めるように目を閉じ、再び自分と対峙している人物を見る。
捻り潰すことなど造作もないほどの権力を持っている男。それに恐れはなかった。ただ、畏れているのは。
「……過去のことは否定しません」
壱尭の表情がかすかに動いたが、会って間もない、ましてや企業のトップ、数多くの癖のある幹部や企業のトップたちを相手にいている男だ。そんな変化を朝葉に気づかせるわけもなく、また朝葉も気づくわけもなく。
「じゃあ、どうするんだい?巻き込むのかい?自分のしがらみに」
「巻き込みたくないと思っています」
「へぇ、それが出来るとでも?」
「いいえ。今の俺じゃ無理でしょう」
壱尭が挑発的な言葉を投げかけても、朝葉の双眸は凪いだままだ。
自分がまいた種は、否応なく回りに被害を及ぼすだろう。朝葉が何を言っても、どうしようとも。それを完璧に未然に防ぐことなど出来ない。彼はどこにでも駆けつけられる俊足を持っているわけではない。ましてや、空を飛ぶなどといった芸当ができるわけではないのだ。
一方、壱尭は内心で、感心していた。調書を読んで感じたのは、無鉄砲ないきがった、ただの喧嘩に明け暮れるガキだという印象しかなかった。だが、本物は。
そんな彼の思考を破ったのは静かな声。
「それでも、隣にいることをやめたいとは思いません」
誰の、とは言わなかった。それに二人とも分かっている。今更、だった。
「子供だな」
ため息混じりに呟かれた言葉を朝葉は否定しなかった。
「そうですね。護るとか護れないとかじゃなく、とにかく今、その近くにいたいと思っています」
出来れば、その隣で。その存在のすぐ傍で。
そう思いながら言った朝葉を見て、壱尭の表情が変わる。驚きを浮かべたそれに。
脳裏に過ぎるのは懐かしい声。
―――今、あなたの傍にいたいとわたしが、言っているの!―――
普段はそう見えないのに、いざとなれば彼を折れさせるほどの強い、頑固な眼差し。それを受け継いだのは彼の娘。
殺伐とした緊張をはらんだ空気。数秒の長すぎる沈黙。
「そうか」
かすかに呟かれた言葉は、室内に染み入るように落とされる。朝葉はただ、壱尭を見ている。彼の反応を。
声を荒げるわけでもなく、手を出すわけでもなく、ただ凪いだ声音で本心を言った青年。だが、その目は。
最後の言葉を自分に告げた青年の目は。
重なる記憶と言葉に壱尭は微笑んだ。そして。
「生意気な子供だ」
と、いつくしみを滲ませた父親の顔で、笑いながら言った。
今日は一体、なんだったのだろうかというのは全てが終わった後の彼の心境だった。
思ったよりも精神的にきつかったのは、一妃の父親との二者面談ではなく、その後だった。何が楽しくて、先ほどまで緊張はらんだやり取りをしていた相手とにこやかに昼食を食べる破目になったのか。
あの後。
『ああ、もうこんな時間か。じゃあ、朝葉くん』
そのセリフにこれで解放されると思っていた彼の思惑はものの見事に外れた。
『ご飯を一緒に食べに行こう』
この時の自分は、かなり間抜けな顔をしていただろう。
そんなことを告げられ、辞退する間もなくあれよあれよと連れて行かれ、高級なレストランで午前中とは打って変わったにこやかな会話をしながら食事をして、気づけば学校にいっても何をするんだという時間になっていた。
『それじゃあ、また』
そういって車から降ろされたのは、朝自分が拉致られた駅の近く。
思い返せば、ぐったりと疲れた一日だった。
ため息を零す。いつか言われるのではと思っていた現実。それが、よりにもよって彼女の父親だったというだけで、彼にとっては何も変わらない。
ただ、牽制や脅迫じみたことをされなかっただけでもよかったと言うべきか迷うところではあったけれど。
「また、か」
そうこぼれた声にかすかに苦笑する。また、ということはまた似たようなことがあるのだろうか。それとも社交辞令か。
そう考えていると後ろから聞きなれた声が彼の耳に飛び込む。
「朝葉」
「朝葉?」
振り向けば悪友の飄々とした笑みと、美少女としかいいようがない人物の視線、そして。
「今日、何かあったの?」
心配げに聞いてくる見知った人物。その目に自分が相変わらず映っていることをくすぐったく思う。
「いや、ちょっとな」
そう言葉を濁す。相手は何か聞きたそうだったが、すぐに笑みを浮かべた。
「今から、近くに出来たケーキ屋さんに行くんだけど、行かない?」
「朝葉は甘いもん大丈夫だし、行くって」
「いつ行くっていった」
「あら、行かないんですか?」
「行かないとも言ってない」
「じゃあ、行こう」
そういって彼女が自然に横に並び歩き出す。その自然な仕草に胸に満ちてくる温かいものを感じながら、この場所を手放すことなど出来そうにないと、かすかに笑みを零した。
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