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背中に衝撃。
その場に倒されるように転んだ一妃はぎゅっと目を瞑る。
予期した痛みは―――なかった。
「え?」
「うそ…ど、うして!?」
呆然と後ろに首を向けた一妃の声と困惑した椋野の声が重なった。
そこにあった光景は。
階段を走る。踊り場に降りることなく途中の階段から手すりを使って下の階段へと飛び降りる。すれ違う生徒がいないのがせめてもの救いだ。もちろんこんなところを教師に見られたら、即、指導室行きだろう。
が、今、そういわれても行かない―――むしろここぞとばかりに脚力にものを言わせて振り切る―――自信がある。
ケータイから聞こえたかすかな雑音。争うような音。
返ってこない声。
予想できたことに彼は鋭く舌打ちをした。
『気をつけたほうがいいわ』
忠告はあったのにも関わらず、彼女を一人にした。普段からあまり周りに目を向けない自分をこの時ほど、呪ったことはない。
目の前に迫った新校舎から旧校舎へと向かう渡り廊下の扉を開け、彼は目を瞠った。
「……お前」
「よ、朝葉」
ひょうひょうと笑う彼が、そこにいた。旧校舎の入口に。
周囲に数人の彼のチームを連れて。足元にいかにも問題児といったような格好の男を地面に倒して。
「さあ、行くか」
そう笑った。凶悪に。
『北桜』を支配する≪キング≫の顔で。
カッターナイフが乾いた音を立て、床に落ちる。
華奢な細い手首を捻るような形でとらえているのは、一妃を捕まえていた男だった。
「はあ、危ない危ない。お陰であの人から地獄の教育を受けるところだった」
そう嘆息する男を呆然、唖然、驚愕の目でみている室内の面々。一妃をとらえようとした男たちでさえ、何が起こっているのかわからないというような顔をしている。
それもそのはず、このために呼ばれ椋野というお嬢様から、ほんの少しの『お小遣い』までもらった彼らの中に、まさかお願いしてきた本人を止めようとするやつがいるとは思っていなかったのだから。
彼は転んだままの一妃を振り返る。その顔に彼女は記憶に引っかかるものを感じた。
「とりあえず、そのままドアから逃げてください」
「あ、あの、まさか、しず…」
「あー、ストップ。まあ、そのまさかってことで」
立ち上がった一妃が信じられないというように男を凝視した。その視線に照れくさそうに、同時に、困ったように彼は笑った。
逃げるという言葉に反応したのは、元凶であるお嬢様だ。
「待ちなさい!許さないわよ!ちょっと、手をはなしっ…きゃあ、いたい!」
喚くように叫ぶが、軽く手首を掴む手に力をこめられ悲鳴を上げる。身をよじる椋野を冷たい目で見下ろし、男が周囲の問題児たちに視線を向けた。
「ぼうっとしてると、怖い連中があんたらをボコボコにしに来ますよ。……もう遅いかな」
「え?」
忠告のようなセリフの最後の方は一妃と椋野にしか聞こえなかった。そして、問題児たちが口を開くこともなかった。なぜなら。
扉が壊れんばかりに勢いで開かれる。
そこから来たのは。
「朝葉」
一妃の呟きに朝葉は無言で彼女の腕をとり、かばうように自分が一歩前にでる。椋野の表情が強張る。男たちが逃げようとして、足を止めた。
朝葉の後から現れたのは北皇の制服を着、濃紺のネクタイをした―――朝葉と同じ学年の―――五人ほどの男たちと。
「おー、なんだ、ちゃんと押さえているじゃないか」
陽気なとも呑気なともいえる口調の主。
「静」
一妃は朝葉の傍で気の抜けたような声を出す。が、彼女をちらりとみた静がにやりと笑い、その視線を、椋野を捕まえている男へと向ける。
「ちゃんとって……。俺は武道派じゃないんですよ、キング」
「いや、やれば出来る子だなぁ、光介チャンは」
「チャン、言わないでください」
椋野の手を掴んでいる男と場違いな静の会話に椋野は目を問うように泳がせる。状況についていってないのだ。
一方、一妃はなんとなく状況が読めてきていた。それとなく視線を問題児たちに向けると、前の扉からも五人ほどの男たちが入ってきて、出入り口を塞いでいる。
先ほどの光介と呼ばれた男の言葉。
まさかという確信の肯定するそれ。
今、この状況。
「さて、お嬢様は残して、他は…」
動けない問題児たちを見渡す。その顔から飄々とした笑みが、消える。残るのは冷酷な笑みを浮かべた『王』の顔。
空気が張り詰めるような感覚に一妃は身を強張らせるが、それは腕を掴んでいる大きな手によって、解ける。
傍にいるのは彼女を傷つけることはない人物。傍にいて安心できるその人だ。
「叩き潰せ」
その『命令』によって一斉に動く男たち。
時間はそうかからなかった。あえていうならば、その乱闘は、一妃が思わず引くほどの暴れっぷりだった。