第二話 カウントダウンの始まり #10

 

「あ、来月からこうやって出来ないかも」
「あ?」

 食事の最中にふいに静の正面に座っている彼女がそうもらした。口に運んでいたフォークをとめた静は千郷を見ると、彼女はどこか困ったような、迷ったような顔をしている。その目に影が一瞬だけ過ぎったのを彼は見逃さなかった。
「何かあったのか?」
「いや、バイトが忙しくなるだろうし。また、別のを入れようと思って」
 刹那、彼の脳裏に過ぎったのは彼女に男が出来たのかという疑問が浮かんだが、千郷の言葉で杞憂に終わった。それでも彼には聞き捨てならないことには変わりない内容で、
「かけもちか?」
「そう」
 千郷の返事に静は一瞬、その双眸に鋭い光を過ぎらせたが、料理に夢中の彼女がそれに気付く事はなかった。
「おいおい、大丈夫なのか?」
「何が?」
 料理から目を逸らさない彼女を静は気にすることなく問いかける。
「倒れたばかりだろう?」
「もう大丈夫だし」
「まあ、倒れたらまた看病してやるよ」
「は!?いや、いらないし!!」
 こともなげに告げる静に千郷は眼をむくと静は彼女の反応を見るかのように、唇の端をあげ笑う。どこか色気を感じさせる男の笑みだ。
「またあのホテルに連れて行ってやろうか?」
 千郷は思わず顔に熱が集まるのを感じた。が、ここで静にくってかかっても相手の思う壺だ。自分を落ち着かせるようにジュースを一口飲むと未だに面白そうに笑っている静を無視して食事に手を伸ばす。

 ちなみに今日はフランス料理のお店だ。しかも、個室を用意してあってここには千郷と静しかいない。折角、おいしいご飯を食べているのだ。どうせなら楽しく食べたい。相手はひとまず置いておいて。

 無理矢理、怒りの矛先を抑えようと料理に手を伸ばしている千郷に静の笑みが益々深くなる。
「まあ、新しいバイト先がわかったら連絡しろ」
「え?なんで!?」
「当然だろう?」
「いや、だから、なんで!?」

「俺がそう決めたから」

 飄々とした男の俺様発言に千郷は絶句し、思わず唸った。
「こんの俺様め」
 
 
 
 
「じゃあな。ちゃんと寝ろよ」
「そっちもね!」
 お店を出た後、駅まででいいという千郷とアパートまで送ると言い張る静との攻防の末、結局アパートまで送ってもらった千郷はふてくされながらも静を見る。

 その拗ねた子供のような顔も彼にとっては可笑しく飽きないと思わせるものでしかない。
 そして、車を降りた千郷が何を思ったのかくるりと静の方を向いたので、彼は内心で軽い驚きを覚えた。

 大体、彼女は別れたあとこちらを振り返らないことが多い。というか、絶対に振り返ってやるものかというように怒りのオーラを満載で歩いていくのだ。周囲の通行人の視線など気にすることなくだ。そして、それに気づいて顔を恥ずかしそうにうつむき加減で早足で帰っていくのを誰かにぶつかるんじゃないかと思いながら見送っている。

 怒りのオーラを放つ元凶になっている本人が思うことではないのだろうか。

 だから、彼女が車を降りるとそのままアパートに入っていくのかと思っていたのだが。

「その、送ってくれてありがとう」

「………は?」

 思いがけないことを言われ、静は目を瞠った。それはそうだろう。普段から自分に突っかかってきて、怒っている―――あえて静が怒らせているのだが―――相手からまさかそんな言葉が聞けるとは思わなかったのだ。静の反応に恥ずかしくなたのか、千郷は苦虫を潰したような照れくさそうにやけくそに叫んだ。
「だから、ありがとう!おやすみなさい!!」
 目を合わせることなく言いにくそうに恥ずかしくてたまないというように言った言葉。最後は間違いなくやけくそだったのだろう。
 そのまま走ってアパートの中へと姿を消した千郷を静は呆然として見送り、やがて噴き出す。
「本っ当に、素直じゃねーなぁ」
 千郷のおやすみなさいといったときの顔を思い出して、楽しくてしょうがいないと言わんばかりに笑う。
「本当に、あいつは面白い。そう思わないか?牧」
 その言葉に運転席の牧がため息をつきながらも、柔和な笑みを浮かべて車を出す。
「素直な方です」
「俺には噛み付いてくるぞ?」
「それはあなたが彼女をわざと怒らせていらっしゃるからでしょう」
「まぁな」

 やがて、牧と軽口の応酬をしていた静の笑い声が納まると先ほどまでの和やかな空気は一変した。

「牧」
「はい」
 相手を従わせるには充分すぎるほどの威圧感に満ちた声。それが先ほど、女子大生をからかい笑っていた男の声だとは思えないそれ。
 牧はそれが仕事のときの彼だと知っている。
「アレの周囲を調べろ」
「調べてもよろしいので?」
 牧や彼の周囲の人間は静が千郷を気にかけるようになって、彼女のことを調べようとした。それは、当然だ。静の立場や権力などを考えて近寄ってくる相手などいくらでもいるのだから。だが、静はそれをさせなかった。
 だから、彼らは彼女のことを調べなかった。もっとも、ケータイのアドレスやら番号やら住所などはばっちりと押さえていたが。

 だからこそ牧は静に問う。
 彼の脳裏に過ぎるのは彼女との会話。

 ―――バイトって言っても、親戚のやってる店の手伝いだし。大丈夫よ。

 今日の彼女はいつも通りだった。だが、電話をしたときの声や時折、顔に落ちる影が落ちていた。バレないようにと無理をして、仄かに笑っているその顔に。千郷は感情が表に出やすい。というか、本人は隠しているつもりなのだろうが、静からすれば分りやすいことこの上ない。
 何かあったのだと断定するにはまだ、材料がたりない。

 それでも、気に入っている人間が何かされるのは気に食わない。彼女は勝手に調べられたということで怒るだろう。
 だが、それは関係ないのだ。
 そう関係ない。ただ、どちらにせよ。

「何かしらの連中に手を出されるのは気に食わない」

 そう、彼女に害をなすようなら、放っておく気はないのだ。
 なにせ、彼女は自分を楽しませてくれる相手なのだから。
 自分が気に入っている。
 ただ、それだけでも彼が動くのは十分な理由だった。
 

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