第二話 カウントダウンの始まり #09

 

 大丈夫かという言葉を掛けられたのはいつ以来だっただろうか。
 
 
 
 千郷はぼんやりと電車の窓の外を流れる風景を見ていた。
 小さいころは怪我をしたり友人と喧嘩をして帰った彼女を父親や母親が心配し、兄がどうにか泣く彼女を笑わせようとして必死になだめていた。
 そのころを思い出して彼女はくすりと笑みを零した。
 喧嘩をした相手が男の子でいじめられていたと知ったときの兄の顔はすさまじく怖くて怒っていて、仕返ししてくるという兄を必死で止めた覚えがある。
 どこに小学生のささいな喧嘩に高校生が出て行くんだと今になっても思う。が、それは大事な大事な、深い海の底にある宝箱のような思い出の一つだ。

 電車のアナウンスが駅に着くのを知らせる。止まり開いた扉からホームへと降り立ち、そのまま人に釣られるように改札口へと向かった。
 駅からタクシーで郊外までいくと、千歳はある場所で下りた。坂道を登りきるとそこには街を見下ろせるほどの高台。そして、その手前に広がるのは墓地だ。
 じゃりを踏みながら歩いて、ある場所でとまった。
 石に彫られているのは「菅原家ノ墓」という文字。後ろには両親の名前がある。そして、三年前に死んだ兄の名前も。
「……久しぶり」
 墓の前に腰を下ろし、駅前の花屋で買った花を生ける。
 両親が死んだのが、六年前。兄が死んだのはその三年後だった。どちらも事故で、両親は雪の降る日に二人で出かけてそのまま帰らぬ人となった。

 兄の事故はどうだったのか知らない。覚えていないのかもれない。両親が死んで中学にあがったばかりの自分を支えていた兄が死んで、何が起こったのかわからないまま喪失感だけを抱えていた自分に親戚が何を言ったのかあまり覚えていないのだ。
 手を合わせて目を閉じる。
 そして、腰を上げて帰ろうとしたときに、坂道を上がってきた人物を見て千郷は凍りついたように動きをとめた。

 昼のさわやかな日差しがこれほど似合わない人が、墓地という場所に似合わない格好をした人がいるだろうか。
「あら、来ていたのね」
「…お、久しぶりです。叔母さん」
 声が震えていなかったどうかはわからない。
 にこやかに笑う彼女の目は冷たい。そして、彼女の着ている服は体の線を強調するような、露出は少ないものの夜の店にいる方がしっくりくる黒い光沢のあるドレスに薄手のコートを羽織り、髪を上げて艶やかな化粧をしている叔母は千郷に近づく。
 彼女の後ろにはスーツを着崩したチンピラのような男が一人こちらを見ていた。
 千郷の背中を冷や汗が流れ、心臓がどくりと音を立てた。思わず後ずさる彼女を見て、叔母である女は紅い口紅を引いた唇の両端を上げる。
「そんなに警戒しないでちょうだい。今日はお墓参りに来ただけよ?」
「そうですか」
「愛想のない子ね」
 大きなお世話だと思ったが、千郷はそれを顔に出すことなくそのまま叔母に背を向けて歩き出そうとした。が、その背中に嫌に優しい艶を含んだ声がかかる。
「ああ、そうそう。お金の方ね、来月から二回下ろすようになるから」
「え?」
 二回。今の金額で二回おろすということだろうか。
 呆然と後ろを千郷が振り返ると、叔母が手を合わせたあと立ち上がったところだった。
「だから、どうしてもダメだったらうちで働いてもらうからね」
 他人が見たら美しくも妖艶に見えるその笑みが千郷の思考を凍らせる。その冷たい視線と言葉の意味を理解しないまま、いや、したくなった千郷はその場所を逃げるように走って後にした。

 背中を這うように絡みつく視線を振り切るように。
 
 
 
 どうやって戻ったのか記憶にない。大学のある街をぶらぶらとあてもなく歩き、どこかわからない公園のベンチへと腰掛ける。
 来月からお金が二回おろされるということは、今までの倍額がおちるということだ。そうなれば確実に叔母のいった「うち」で働く事になる。
 彼女のいる場所で。彼女の紹介する相手の話し相手になり、お酒を飲む。大学も今のように通えなくなるだろう。
 むしろ辞めることになってしまう。

 過去に叔母のやっている店で一時期、バイトをしていたことを思い出す。
 膝の上で握り合わせていた手がじっとりと汗ばむのがわかる。
 今までのバイトでは間に合わない。それはわかる。だけど理解したくない。
 兄が死んでから親戚である叔母の家にいた。そのときから、彼女によく思われていないことは分っていた。それでも、好かれたくて彼女の言うとおりにしていた。バイトも言うとおりに。

 だけれど。

 蘇るのは夜の街と煌びやかな女と欲に目を染めた男のそれ。
 触れてくる手には嫌悪しか抱かない世界。

 過去の記憶を押し込めるように大きく息を吐き、気分を落ち着かせようとした時だ、かばんの中のケータイが振動している事に気付く。
 誰だろうかと緩慢な動作でケータイを取り出し、その画面をみたときに千郷の脳裏に過ぎったのはあの声だった。

 ―――大丈夫か?

 どうしてこうタイミングがいいのか。どうして今なのだろうか。どうして。

 一向に鳴り止まないケータイの通話ボタンを押して耳に当てる。
「もしもし?」
『遅ぇ』
「遅くない」
 いつものやり取り。聞こえてくる声もいつも通りだった。千郷は、それにどこか安心しながらも平静を保ちながら視界が歪んでいくのをとめられなかった。
『今日、暇か?飯はもう食ったか?』
「まだ…ですけど」
『じゃあ、また美味いところに連れて行ってやるよ。支度しとけ。迎えにいく』
「は!?支度って…ていうか迎え!?」
 相手から出てきた言葉に思わず外だということも、視界が歪んでいた原因のものすらも驚愕に引っ込んだ。
「いい!駅まで出るし!その前に家知らないでしょう!?」
『俺が知らないと思うか?』
「………」
 相手の笑みを含んだ言葉に絶句する。
『ちさ?おーい、どうかしたか?』
「………あたしのプライバシーはどこに行った…」
 と、脱力して呟く千郷に呑気な口調の相手は喉の奥で楽しそうに笑うだけだった。

 その声に、口調に、それまであった不安がいつの間にかなくなって、涙が引っ込んでいることに彼女が気付くのはケータイを切った後。
 そして、くすぐったいような気分になり、言いようのない羞恥を感じたのはさらにその後だった。
 

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