第二話 カウントダウンの始まり #08
ある休日。明音と遊んでから銀行へ行き、一人暮らしをしている部屋に戻ってきた千郷は、通帳をみながらため息をはいた。
そこには落とされた金額や振り込まれたバイト台が記入してあるのだが。
「来月は本当にヤバイかも」
いつかは、そうなると思っていた。
歳の離れた兄が事故で死んでから、高校生だった千郷はなんとか兄の保険やら両親が残してくれていた遺産でなんとか卒業して、大学に入った。
大学の方は奨学金で通っている状態だ。
元々、成績が悪いほうではなかった。それが唯一の救いかと受験真っ只中で、机に突っ伏しうなっている明音を見てひそかに思ったのは内緒だ。
昔を思い出しながらくすりと笑みをこぼし、通帳をしまおうとしたとき、テーブルの上に置いてあるケータイがなった。
誰からだろうかと思いながらディスプレイを見て、ぎょっとする。
ディスプレイに表示されている文字は「天城静」。
千郷自身は登録した覚えはない。なんで、どうしてこの人の名前があるの!?と混乱している頭でふいに閃く。
まさか。
慌ててボタンを押すと、
『遅い。驚いたのか?』
「人が倒れたときにケータイを勝手に弄った人に言われたくない」
面白がるような色を含んだ声に千郷は憮然と反論する。すると、電話の向こうで相手がかすかに笑ったのがわかった。
「何?」
『いや、時々、敬語がなくなるなと思ってな』
「こんなことする相手に敬語を使う理由がないでしょうが!」
千郷の反論にも静は低い笑い声を上げるだけだ。うぐぐ、この悔しさはどうするべきか、ていうか決めた絶対にこの人に敬語は使うものかと彼女が思っていると、ふいに電話の向こうで甲高い雑音が聞こえた。
「……え?」
『ん?』
悲鳴のようなその音に千郷が小さな声を漏らすと静が疑問の声を返す。その声は、いつもの低い声だ。
『ちさ?どうかしたか?』
答えない彼女に静の声が耳に響く。はっとした千郷は、慌てて早口に言う。
「べ、別に。それよりなんの用?いきなり。ていうか、ちさって…」
『ああ、いいだろう?俺が考えたあだ名だ』
「そんなこと聞いてないってば!」
『なんだ。気にいらないか?』
「そういうことじゃない!で、何のよう?」
千郷は相手のペースに嵌るなと自分に言い聞かせ、呆れながらも次はいったい何を言われるのかと身構える。
『体調は大丈夫か?』
「へ?」
からかわれると思っていた彼女の耳に届いたのは、気遣う色を乗せた音だった。だから、一瞬何を言われたのかわからなかった。
『おい。まだ、悪いんじゃないだろうな?』
「へ、あ、いや!大丈夫よ!平気だってば!!」
『…そうか。じゃあ、ちゃんと飯食って寝ろよ』
戸惑いながらも慌てて返す千郷に一瞬、間があったものの静はそういって電話を切った。千郷は切れたケータイを眺め呆然としていた。
強引なのか、マイペースなのか、人をからかうのが好きでセクハラ野郎で誘拐犯かつ人のケータイを弄った相手なのか。
あの大丈夫かといったのは!
「い、今のって本当にあの人………?」
信じられないものを見たような顔でケータイを眺めていた千郷は、ふるふると首をふる。
「ありえない。ありえない、あんな人があんなこと言うなんて!」
まだ、疲れているんだきっとそうだとぶつぶつ呟きながらも、耳に残る静の声は消えることはなかった。
切ったケータイを懐にしまう。そして、部屋の扉の傍にいる二人の黒いスーツを纏った男と彼らが両脇から両腕に押さえているバーテンダーの服をきた男に冷ややかな視線をやる。
びくりと抑えられたバーテンダーが肩を揺らす。その顔色は蒼を通り越して蒼白だった。
繁華街の一角にあるクラブの事務所。
事務所の中には簡素なデスクとソファ、テーブル、テレビなどだ。そして、デスクの前に寄りかかった男はその殺風景な室内の中では異質で周囲の光景とは不釣合いだった。
相手を屈服させるほどの威圧感と触れれば切れるような影を含んだ澄んだ空気。
屈強で鍛えられた体にいかつい顔、あきらかに一般人とは言いがたい空気をまとう二人の男を従える彼らよりも若い男は、その部屋に王者のように君臨していた。
その冷ややかな目の奥には底知れない何かがあるようで思わず目を逸らしたくても、逸らせば危ういと思わせるほどに鋭くどこか美しく恐ろしかった。
先程まで、電話を切ったときに垣間見た笑みや穏やかな眼差しはそこには、ない。
二人の男に捕まえられているバーテンダーは歯が鳴るのを抑えられなかった。すぐそこまで来ている恐怖に、今のこの状況に、これから自分の身に起こることに、目の前にいるデスクにゆったりと寄りかかる男の存在に恐れを抱いている。いや、それは恐れではなく本能的な、弱者が強者にたいして抱く畏怖だった。
「なぁ」
「っ」
男にかけられた声にバーテンダーは体を大袈裟だといってもいいほど体を揺らした。
男の言葉は柔らかい。恫喝でも、怒鳴るのでもない。それなのにその声と目に潜むものが室内の空気をいっそう冷ややかにさせ緊張を高めていく。
そんなことに頓着することなく男は先ほどよりも鋭く冷めた目をバーテンダーに向ける。
「言ったよなぁ。二度目はないって」
「す、すみません!もう、もう二度とは…っひぃ!!」
許しを請うバーテンダーの言葉の最後は悲鳴だった。
なぜなら、デスクに座っていた男が目の前にあるソファの間の机を蹴り飛ばしたからだ。鈍い音をさせ、決して軽くもないその机を足一本で軽々と自分たちの横の壁に激突させるなど、簡単には出来ない。
「俺は二度同じ言うことをいうのは嫌いだ」
そう言い放つと男はデスクから立ち上がり、事務所の出入り口である扉に向かう。その背中に、バーテンダーの悲鳴のような声がぶつかった。
「お願いします!もう一度、機会をください!!お願…っ!!」
バーテンダーの悲痛な叫びを遮るように男は肩越しに彼を抑えている二人に目配せをするとその仕草にバーテンダーを捕らえている男二人がうなづく。それを見たバーテンダーの体が見るのも哀れなほど震えた。
「静さん!!」
バーテンダーが許しを請うように悲痛な声で叫んだ男の名前は、無情にも扉の向こうに消えた彼には届かなかった。