秋の風が頬を切っていく。最近、やっと過ごしやすくなったと思えばすぐにでも冷たい風と乾燥した空気、太陽の光はほんの少し温もりを覚える季節へと変わった。
午前中の授業に間に合うようにアパートを出た千郷は、少し肌寒さを覚える風に長袖のパーカーの前をあわせた。
叔母との遭遇からはや二週間はたっている。
バイトも多くいれ、中には午前様になるのも入れた。当然、生活のリズムが狂っていくのだが、そんなことは構っていられなかった。
あの場所には行きたくないと心底、思っているから。
大学の友人たちが時折、自分の顔を見て何か言いたそうにしているのを知っている。明音なんかは、授業の出席は代わりにとっておくから寝て来いと教室を追い出すほどだ。
友人の強引でどこか冷たくも見える優しさに微笑みが零れる。持つべき者は親友だと穏やかに思いながら、近くの駅へと続く道を進んでいる千郷の背中に艶やかさと氷を思わせる声が投げかけられた。
「随分、楽しそうねぇ」
千郷の体が凍りつく。振り返った先にはいつか見た妖艶な女の姿。表情にはどこか見下した色を浮かべてこちらを見ている。
「お、ばさん」
体の芯がすうっと冷えた気がした。血の気も引いているかもしれない。
近くに止まっていた車から降りてきたのだろう。彼女の格好はあの時とあまり変わらない体の線の出る光沢を帯びたドレス姿にコートだった。
「顔色が悪いわね。バイトの方、頑張りすぎているんじゃないの?」
「い、いえ。大丈夫です」
「そう?気をつけなさいね?あなたは女の子なんだから」
「…ありがとうございます」
軽く頭を下げた千郷の胸に疑問が過ぎる。叔母の自分を気遣うような言葉にだ。過去、こんな言葉をかけられたことはない。
一つ。警鐘が、鳴る。
嫌な予感というヤツだ。
戸惑うように視線をさまよわせた彼女に叔母は女らしさを感じさせる計算され尽くした美しい笑みを浮かべる。
「ああ、そう言えば」
思い出したかのようなわざとらしさを含んだ口調。千郷はかすかに眉を寄せた。そんな彼女を横目で見やりながら、叔母は楽しそうに笑う。
二つ目の警鐘。
「借金のことだけど。大変そうね。だから、あなたの両親の残っていた保険金をつかわせてもらったわ」
一瞬、千郷の周りから音が消えた。何を言われたのかわからなかった。
両親。保険金。なんのこと。あれは。ちゃんと。
呆然とした自分の姪にかまわず叔母である女は続ける。朗らかに明日の天気を話すように。
「このままだと、大学の方は難しいでしょうね。それにあなたがうちにいた時の分の養育費を返していたらなおさらね。だから、行きたいんならうちの店で働きなさい」
我に返った千郷は悲鳴のような声を上げた。
「ちょ、ちょっと、待ってください!!両親の保険はちゃんと…っ!!」
両親の保険金の受取人は兄と千郷だった。だが、未成年である二人はその大金を預かるのを躊躇した。だから、両親の保険金はその時、遺産の関係でお世話になった弁護士の人に頼んだはずだ。それが、なぜ―――。
混乱した頭をなんとか動かそうと呆然として叔母を見た瞬間、彼女の中でかちりと何かが嵌った。
細められた目と艶やかに微笑む口元。それは獲物を捕らえた蜘蛛のような。
千郷は自分の体から力が抜けるような錯覚を覚えた。世界がぐらりと歪む。いや、歪んだのは視界だ。
「週末には迎えに来るわ。ああ、こっちで服は用意するから。じゃあね」
きびすを返し、明らかに高級車とわかる車に乗り込む叔母の背中を千郷は見送った。見送ることしか出来なかった。
何を言われたのかも、ただ言葉として聞いていただけだった。
ただ、その場所に立ちつくしていただけだった。
彼女に理解できたのは。
―――もう、逃げる事はできない。
その事実だけだった。
とあるオフィス街にある高いビルの一つ。社長室とプレートに刻まれた名前の横にある扉を開けると太陽の光を入れやすいように作られた大きな窓にかけられたブラインドが光加減を調節し、部屋をそれほど重苦しくみせないようになっている。
広い部屋の隅には観葉植物、そして重厚な印象を受ける大きな机に革張りの椅子がある。
部屋の主は、執務机の斜め前に置かれたコの字型のものと背もたれの着いた一人用のソファ。その一人用のそれに腰掛けていた。
ばさりと何枚もの書類がソファの間に置かれたガラステーブルの上に放り出される。艶のいい高級感溢れる座り心地のいいソファに腰掛けている男は気だるげに背もたれに頭を預け、天井を見上げると舌打ちを一つ。
「行儀が悪いですよ」
「いつものことだ」
秘書でもある優男の丁寧な言葉に返された返事は素っ気ない。そんなことを気にすることなく、秘書は散らばった書類を簡単に整える。そして、主でもあり社長でもある若い男にどうなさいますかと視線で問う。
「この叔母ってヤツの周辺はどうなんだ?」
「昔から店にはその筋の人間が出入りしていますね。この女自身も借金があるようですし」
秘書の言葉に男の脳裏に書類の文字が躍る。同時に男の纏う空気は冷たく鋭くとがっていく。
やがて、両膝の上に両肘を立て、手を組むと微笑むように目を細め呟く。
「自分の兄を殺して、次はその娘か…」
くっと喉の奥がなる。優男の背中にひやりとしたものが駆けた。
「………いい度胸だ」
抑えられた声には確かな怒気と嘲笑が混じっていた。