王の【狗】 26


「結構、運悪かったんだなぁ。あたしって。まあ、そうじゃなきゃ、こんなとこにいないけど」

 そんな呑気なことを口にしながら、廊下を走る。後ろからは体格のいい、どちらかというとガタイのいいおっさん―――白刃はここでも呑気に、おー柔道とかやってそうないかついおっさんだなと慌てるどころか感心していた―――が追いかけてきている。
 そのおっさんがアルザスとオーディンの言っていた元騎士の男だと白刃は知らない。
 
「待て!」
「待つか!!」
 
 即座に言い返すとゆるくカーブしながら下の階に続く階段が見えた。そのまま降りていくが、途中で白刃はそのいつ崩れるかわからない放置された屋敷の階段の、おそらく頑丈だろうと思われる手すりに腰をかけてそのまま滑り降りる。
 
「な!?」
 
 これに驚いたのはガタイのいいおっさんの方で絶句したが、すぐさま立ち直って彼女を追いかける。
 そのころには下の階についた白刃が、階段を下りてくるおっさんの方を向き、縛られている両手をかざす。
 
 そして。
 
「あ」
 
 すかっとした感覚。
 
「しまったー!!封じられてたの忘れてた!」
 
 白刃が思わず叫んでいると、ぶんと空気を切る音がして、とっさに彼女は床へと転がる。すかさず起き上がると、そこにはいかついおっさんが剣を床に突き立てていた。
 
 あからさまに舌打ちをして睨みつける男に白刃は冷や汗を流す。
 あのまま突っ立っていたら串刺しは間違いなかっただろう。
 
 オーディンくらい、いや、それ以上か。容赦がないぞ。このおっさん。
 
 胸中で呟くと艶やかな低くもなく高くもない声が降ってきた。
 
「ちょっと、気をつけてくださらない?その子はわたくしの人形にする予定ですのに」
「少々、傷がついても治せばいい」
 
 白刃と男が向き合う玄関ホールの開放的なその空中に浮かんでいるのは、腰まで届く長い緩くうねる金髪に緑色の瞳を持った女。
 
 艶やかに笑うその女は、白刃から見ても妖艶で魅惑的な―――いわゆる男を虜にしそうな出るところが出た―――女だった。
 
「うわ、変態のおばさんだ。ていうか殺す気満々じゃない?そっちのおっさんは」
「なんだと、小娘!」
「わ、わた、わたくしに向かっておばさんですって!?」
 
 おっさんが怒気をあらわに、女が口を戦慄かせながら金切り声で叫ぶ。
 
 
 白刃はその様子を見ながら、口端を吊り上げる。そして、のたまった。
 
 
「ああ、違うか。ねぇ、三流の密売組織の下っ端さん?」
 
 
 首をかしげながら浮かべた笑みは、彼女の契約者である青年のそれとよく似ているものだった。
 
 
 
 
***
 
 
 
 
 ピクリとその剣を抱いていた男の指が動く。
 
 部屋の端、窓辺にいる男は、そのまぶたをゆっくりとあげ紫紺の双眸を夜の空へと向けた。
 満天の星が輝く、この空を見てぽかんと間抜けな顔をして見上げていた少女の姿が脳裏を過ぎって、眉間にしわが寄る。
 
 未だに自分の感覚に触れない気配に苛立つ。
 無防備にも程があると何度、思っただろうか。
 契約をとくまで、後、何度同じ思いをするのか。
 振り回されている事実に苛立つ。
 
 自分の命を他人に預けることや心配を誰かに対してすることがなかった青年は、この状況に苛立つ術しか持っていなかった。
 
 早くと思う。
 
 でなければ。
 
 彼女は。
 
「……一晩中は説教だ。あのバカ」
 
 そう呟いた瞬間。
 
 腕に鈍いかすかな痛みと。
 左胸に走る熱。
 
「…これは」
 
 すぐさま左腕の袖をまくり、腕をみるとそこには赤い薄い線が斜めに入っている。
 
 契約を交わした契約者自身が怪我をすると、契約を交わした相手にも多少、怪我が移ったり同じ場所に痛みを感じる。
 それは稀な現象だったが、彼はこれと似たようなものを以前にも経験していた。
 あの時は刻印が熱を持っていたが、今回は一瞬だけだった。
 それが指すのはあまり命に関わる怪我ではないということ。
 
 そこで自分の感覚にひっかかる気配に気づく。
 
 紫紺の双眸が窓の外を見据える。その紫紺が揺らぐ。
 途端に、彼の視界が変わった。
 
 街の数箇所に灯る光のいくつもの重なった輪。
 
 それは彼だけに見える≪魔力≫の≪陣≫だった。
 
 この世界、シャイン・ティア・ノーラ(『光輝く悠久なる宿り木』の意味)で生きるものは皆、多少の差異はあっても魔力を宿している。白刃のように強力な魔力を持った人間もいれば、ほんの少しのあるかないか程の魔力しか有していないものもいる。
 そして魔法を発動するときには≪式≫を組み、≪陣≫を発動させるのだ。
 普通の人間には見えない魔力の軌跡や≪陣≫をオーディンは見ることが出来る。
 
 ヴェスヴィオでもオーディンはこれを使って、白刃の魔力の残滓をたどった。もっとも、あの時はそれをする前に、転移の≪陣≫の座標を読んだだけなのだが。
 
 街を見渡していた紫紺が南の方を見据える。
 林の中の方にちらちらと見えるいくつかの屋敷のうちの一つに、魔力を外に漏らさないための結界の≪陣≫が揺らぎ、人に見つからないようにするための幻影を見せるための≪陣≫が浮かびあがっている。
 
 魔力を外に漏らさないようにするのは捕らえた精霊などの気配を悟らせないため。
 幻影を見せるようにしたのは近づいてほしくないからだ。
 
 それを認識すると同時に、部屋を飛び出し、最終的な調整を大将としているアルザスの元に急ぐ。
 
 
 ―――もう、待ってなどいられなかった。
 
 

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