扉と鍵 64


 

 ゆるやかな、まどろみの中にいるように、そこは驚くほどに優しかった。
 柔らかく受け止められる。
 ゆっくりと沈む。
 けれど、確かに感じる弾力。
 それは、太陽の陽を浴びたシーツのように。母親に抱かれたときのように。
 
 無条件の安堵を覚えた、あの人の笑顔のように。
 
 
 
 
 
 城内の廊下。アルザスが壁に背中を力任せに押し付けられ、顔をしかめる。文句を言おうとした口は、中途半端に開かれたまま固まる。
 
 病人のような苦しみに浮かされている男の力とは思えないようなそれに。紅い髪の下から、垣間見えるその凄絶な光を宿した紫紺の双眸に。―――アルザスは、絶句した。
 
 紫紺の双眸に宿るのは、生易しいものではなかった。艶やかで壮絶なまでの殺気すら纏った、怒りや焦燥をあらわしたそれ。
 
「どっ…こ、に…ぐっ…ぃるっ」
「どこにって……」
 
 呆然としたアルザスから突き放すように、手を離す。オーディンは顔をしかめながら、けれど、その瞳を逸らしはしない。
 
「ヴィヴィの研究室だよ」
 
 ポツリと落とされた言葉。その声はこの状況の中、不釣合いな落ち着きと穏やかさをもっていた。
 アルザスが驚愕に目を剥く。一方、オーディンはその凶悪としか言いようのない顔をその人物に向ける。射殺すような視線を向けられても、その人―――ユリウスは侍従も連れずに泰然とそこに立っていた。
 
「知って…っ」
 
 体内をうごめく感覚に、彼は小さくうめく。ユリウスはオーディンの様子に、その翠の双眸に痛ましそうな光を過ぎらせ、一瞬の後にはいつもの表情を彼に向ける。
 
「行くかい?」
 
 オーディンが、その瞳に怪訝な色を宿しながら、ユリウスを見やる。彼は、穏やかにけれど残酷に言い放った。
 
「行くかい?…彼女の鼓動が止まっているかもしれないとしても」
 
 その姿を見に行くかい。
 
 
 瞬間、オーディンの双眸が凍りついた。
 
 
 
 
 
 ヴィヴィラードは、床から少し浮き、目を閉じている白刃を見ながら、彼女の周囲に取り巻いている契約の≪陣≫を見る。
 普通なら≪陣≫は見えない。が、この部屋の仕掛けにより、見えるようにしているのだ。
 
 初めて≪陣≫の説明をしたときの彼女の様子を思い出す。
 動揺、驚愕、疑問、そして―――切なさを秘めた愛しさを、その顔に浮かべていた。
 
 白刃はオーディンに刻印を刻んだ。それは≪束縛≫。契約という形で。だが、実際にはそれは彼女を守るためのものだった。 
 
 ≪陣≫の解析の段階で、白刃にも刻まれていたその刻印。それは≪守護≫の刻印。
 白刃にも刻まれていたのだ。刻印は。
 
 その刻印の仕掛けを見て、ヴィヴィラードは感嘆したのだ。
 
 完璧に隠された≪守護≫の≪陣≫。それは彼女の身に危険がせまれば、発動すると同時に時期がくれば解けるものだった。つまりオーディンに刻まれている≪束縛≫の刻印は、彼女を守る人間に刻まれるものであり、解けるものだった。
 
 
 一重に彼女を守るために。
 
 
 彼女の身の危険、その命を護り得るものに刻まれる刻印であり、≪契約≫。
 
 それに加え。
 
「………まったく、器用なものですね」
 
 呆れのような、どこか感嘆と懐かしさをその蒼い双眸に過ぎらせ呟く。白刃に一番近い場所に取り巻いている≪陣≫は、≪記憶≫。
 ≪守護≫は時期が来れば解けていくと同時に、≪記憶≫のそれは逆に発動していく。
 
 通常、魔法士が自分の秘伝の魔法を相手に伝える場合に≪記憶≫の≪陣≫を相手にかけるのだ。それは、膨大な情報量であり、魔力の強いものであるがゆえに、口伝もしくは文章に残せば、多大な時間と手間、あるいは文章の書かれた本や紙自体が魔具となるために、こういった形で残すための魔法だ。
 
 ≪束縛≫は彼女を護る人に刻むもので。
 
 ≪守護≫はそれを発動させるためのもので。
 
 ≪記憶≫は彼女を導くためのものだった。
 
 それらは、元は一つの≪陣≫だった。それぞれを隠すために、それぞれを別の形で、しかも同時に、限定した相手に向けて発動させる。このようなことが、一介の魔法士に出来るわけはない。もちろん、それを一介の、それこそ一般の魔法士であるアルザスでさえ、気づくことはない。
 
 ヴィヴィラードだからこそ、気づいたのだ。その≪蒼玉の魔女≫たる彼女だからこそ。だからこそ、このような真似が出来る人物も限られる。
 
 脳裏に過ぎった背中を払うように、頭を振る。今は、白刃の身の方が大事だ。時間をかけすぎれば、本当にその命を奪ってしまう。
 
 そして、再びヴィヴィラードは白刃を取り巻く≪陣≫に向き直った。
 
 
 
 
 
 まぶたの向こうに日差しが入るのを感じて、まぶしさに顔をしかめながら、彼女はまぶたを開ける。ああ、眠っていたのかとぼんやりする視界。と、そこで我に返る。
 
 見慣れた家具。見慣れた壁紙。感じなれた空気。肌になじむソファの感触。
 
 覚えている。知っている。その光景を。
 
 身を起こし呆然として。開け放たれた窓から見える景色に、彼女は吐息を零す。
 
 ああ、この場所を知っている。美しく色とりどりの花を咲かす庭に設けられた、あの小さく可憐で美しい白いテーブルと椅子を。
 
 その庭の美しさも。広さも。
 よく怪我をして怒られた。よくかくれんぼをした。悪戯も。
 
 記憶に一切、違わずそこにある光景に、彼女の頬をなにかがすべる。
 空気が揺れる。そちらに目をやる。
 
 部屋の入口、観音開きの扉の一方だけを開け、そこにたたずむその人を見て、彼女の視界が歪んだ。
 
 声が漏れる。震える口を手で覆った。違う、これは、夢だ。だって、その人は。もう。
 
 歪む視界の中で、その人は目じりのしわを濃くして、緩やかに穏やかに、慈愛を滲ませながら。
 
 
「白刃」
 
 
 夢にも見る、記憶に寸分違わぬ、その優しい声を紡ぎ、微笑みながら。
 

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