旅立つ少女
その日、少女はここ最近でなれたあるビルの一室にいた。お世辞にも治安はいいとはいえない、その繁華街。
その一角にある寂れたビルの三階にその事務所はあった。
制服姿の少女は外観とは異なるほど、綺麗に整えられた部屋の中央にあるソファに座っていた。
黒髪に黒い双眸をもった少女―――灯崎白刃は眉間にしわを寄せる。
先ほどから、この事務所の前でドスの聞いた声が聞こえてくる。それは彼女の知っている人物のものだ。
やっぱり詐欺だと彼女は思っていると、扉が開き、携帯電話をしまいながらスーツ姿の男が入ってきた。
「お待たせしました。白刃さん」
「いえ、お構いなく。ていうか、紅林さんてさ、弁護士だよね?」
確認するような少女の眼差しに、男はにこりと笑った。
涼しげな目元にすっと引き締まった長身の体、スーツを着こなし颯爽と歩く姿は人目を引く。彼は弁護士だった。
紅林祥護(くればやししょうご)はにこりと笑った。部屋の外でのことなど微塵も感じさせないようなさわやかなそれ。
「そうですよ。白刃さん」
白刃の祖母が亡くなったのは、つい一週間前のことだ。
例年稀に見る寒さ。朝から雪がちらつき、夜にはすでに積もっていた。
そんな日の夜も深まった時間。
彼女は親戚の誰も呼ぶことなく、白刃だけを呼んだ。
そして、静かに微笑みながら逝った。
最期には、彼女がもっとも愛した、白刃にとっては祖父の名を声にならない声で呼び、穏やかに逝った。
その朝には親戚に連絡も行き、通夜の準備などに追われていた。それでも親戚連中の関心は、祖父母の莫大な遺産だったが。
それが白刃に相続されると思っているものも少なくなかった。だからこそ彼らは彼女を引き取るだの、甘い誘惑やあからさまに遺産を渡せといってきた。
それを彼女はなんの感慨もなくみやり、ただ事務的に通夜や葬式の準備をしていた。そんな時に、この男が現れたのだ。
紅林祥護。祖母の遺言書を持った弁護士が。
親戚たちは湧きだった。遺言書をこの弁護士が読み上げるまでは。
遺言書には、白刃に遺産の相続権はなかった。彼女にはまるで計算しつくされたかのような、この先、生きていけるだけのお金が残された。そして屋敷が。残りの莫大な財産は祖父が立ち上げた会社やその子会社の方へ寄付されることになり、あまったお金は貧困などにあえぐ子供や慈善団体への寄付になっていた。
親戚たちは大いに憤慨した。紅林を罵り、遺言書が偽者だと言い張る始末。が、紅林はその親戚一同を悠然と見渡し。
『残念ですが、灯崎せりな様が死んだと同時に、その手続きが行われるようになっておりましたので、すべて済んでおります。ですから、もう取り戻すことは出来ません』
そう、遺言書には、自分が死んだという知らせが伝わると同時にすべての財産が、遺言書どおりになるようにしてあった。もちろん、親戚たちは知らない。なにせ、遺言書があること自体が寝耳に水だったのだから。
白刃は阿鼻叫喚といった親戚たちを無感動に眺め、そして、お金と彼女に渡ったこの屋敷に思いをはせる。迷ったのは、一瞬だった。
そして―――。
「本当にいいのですか?」
「はい。構いません」
紅林の事務所のソファに向き合うようにすわり、白刃はきっぱりと言い切った。
祖母は彼女にこれから生きるだけの充分な額とあの屋敷の所有権を譲った。だけど。
「あのお屋敷を壊すのはもったいないと思いますが」
「いいんです。それに、あの場所を公園とかにしたほうが、もっといいと思いません?」
そういって、彼女は屋敷を壊すことにした。思い出があるあの場所にいるのは正直、耐えられそうになかった。所有権は白刃にある。が彼女は未成年。そこで祖母はこの紅林に後見人になることを遺言書にしたためていた。
正直、この人物がそこまで信頼できるのかは知らない。が、祖母は彼を確かに信頼していたのだろう。ならば、別にいいと彼女は思ったのだ。
紅林は折れない彼女の様子に苦笑を零すと書類をまとめる。
「わかりました。では、そうしましょう」
「ありがとうございます」
「あなたはどうするのですか?」
「卒業まで学校の寮で過ごします」
親戚の中には、善意で彼女を引き取るといってくれた人もいた。祖父母の五人いた子供たちの中、白刃の母親の姉にあたる人で、白刃の伯母だ。
それでも彼女は断った。自分がいれば伯母にも迷惑がかかるだろう。親戚のいわれのない中傷など、気にしないような豪胆な彼女であっても。
白刃はため息をつく。そして、かばんをもって立ち上がる。
「もう帰られるんですか?送りますよ?」
「いいです。歩いて、帰ります。最後に家を見て」
彼女の言葉に紅林は何か言おうとしたが、結局、別の言葉を口にした。
「気をつけて」
「はい。…後は、お願いします。さようなら」
「ええ、さようなら」
そういって、白刃はその事務所を後にした。孤独な彼女の背中を紅林はどこか悲しげに見送った。
白刃は事務所を出て、大通りに出て、駅へ向かって歩く。
祖母が死んでからは、彼女は一度だけ泣いた。しかも紅林の傍で。それ以来、彼は彼女を何かと気遣ってくれた。
ありがたいことだと思う。同時に、これから一人で生きていかなければならないのだと自覚もあった。それだけのことをあの人から教えてもらったのだから。
地下街に下りる階段で、真正面から来ていた賑やかに話をしている女子高生たちとすれ違った。白刃は端によっていたが、彼女たちの一人と肩がぶつかる。
階段を下りていた白刃の体が傾き。
「……え?」
妙な浮遊感に襲われ。
―――ぇ……ぃ…―――
不思議な音を聞いた瞬間、彼女の視界は暗転した。
「と、すみませ…あれ?」
「なに?どうしたの?」
「え?ううん。今、誰かにぶつかった気がしたんだけど」
「えー?誰もいないけど」
「だよね。ま、いっか。…それでさー」
「なになに?」
この日、一人の少女が姿を消した。
かえっておいで。我が枝から飛び立った鳥よ。
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