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 「耳を疑う」とは、こういうことかと、後から彼は納得した。
 
 
 
 机や椅子が、派手な音を立てて倒れる。ここがいつもの教室だったなら、確実に周りの生徒は青ざめているか、即座に教師を呼びに走るか、身の安全を確保していることだろう。
 
 椅子や机を巻き込んで倒れた男は、呆然としていた。そして、即座に跳ね起きると自分を殴り飛ばした男に報復することなく、その場から慌てたように走り去った。
 残された男は、いつもの飄々とした笑みを浮かべて、制服のポケットからケータイを取り出し、次の行動に移った。
 
「あ、もしもし。調べて欲しいことがある」
 
 一通り用件を簡潔に話し、電話を切る。そして、笑みを浮かべる。その横顔が窓越しから差し込む夕日に照らされる。
 
「返礼はきっちりするべきだろう?」
 
 夕陽に照らされ陰影を濃くする横顔に楽しげに、酷薄な笑みを浮かべた。
 
 
 
 
 
 誰もいない教室。夕日に染まったそこで、一妃は一人で窓辺の自分の席に座り、幼なじみを待っていた。
 
 襲われた二日後の今日で、学校に来ることが出来たのは静のお陰だった。
 
 公園で、みっともなく泣いた一妃は、そのまま家に連絡して秋名に迎えに来てもらったのだ。彼女は一妃の格好を見て、今度は卒倒しそうになると同時に、何があったのかしつこく聞いてきたが、制服が汚れている以外、何もなかったのでひとまず不問となった。
 
 家に帰り、どっと疲れが出た彼女はそのまま寝てしまったのだが、次の日には、なぜか出張しているはずの父親が朝から家にいた。もちろん、何か企んでいるだろう絶対という満面の笑顔で。
 
 当然、学校は休まされ、当たり障りのないことを話した。もちろん、相手はどこかの変質者ということにして、逃げているときに派手に転んだのだと、話をつくり。
 
 父親のあの顔は信じてないようだったが、静がその日の夜、電話をしてきたらしく、今日は彼の送り迎えで学校へ行ってもいいということになったのだ。秋名は静の護衛付き―――一応、広域指定暴力団の中でも、力のある大きな組の跡取りを捕まえておいて護衛はないだろうと思ったのだが―――ということで、しぶしぶ納得していた。
 
 おそらく、兼近が静に話したのだろう。彼は、あの雨の中、迎えが来るまで一妃の傍に、離れた場所にだが、いてくれたのだ。
 
 本当はいい人なのかも知れないとそのときの光景を思い出しながら、苦笑する。
 
 その時、廊下を走る足音が耳に届く。静は足音を立てないので、違う人だろうと思い、窓の外をぼんやりと見ていると教室のドアが開けられた。そちらに目をやり、一妃は呼吸を止めた。
 
 あの雨の中で。その日の夜に。昨日、家で過ごしている間も。
 
 名前を呼んだ。その背中を思い浮かべた。その顔も。その声も。
 
 そして、今、目の前にいるその人。
 
 
 
「…あ、さば」
 
 
 
 
 
 襲ってきたのは、頬に衝撃。告げられた言葉。
 
 何だと問いかける前に告げられた言葉。
 
 
 ―――お前はバカだ―――。
 
 
 どういう意味だと眉を寄せる彼に向かって、悪友である彼は滅多にお目にかかれない真剣な目を自分に向けたのだ。
 
 
 ―――お前の名前を呼んで、泣いていたそうだ。襲われた後に、雨の中を―――。
 
 
 耳が、脳が、その言葉を理解したくないというように。自分のすべてが、世界のすべてが時間を止めたように感じたその一瞬。
 
 なんだってという疑問は声にならなかった。次の瞬間、体は動いていた。
 廊下を走っていく間、過ぎった記憶は。
 
 朝、駅で会えば「おはよう」といってきた顔だったり、ハンカチを差し出した手だったり、自然に向けられるその笑み。
 
 
 冗談じゃない。
 
 
 その言葉は誰に対してだったのか。
 
 目的の教室のドアを開け放つ。そこにいたのは、驚いた顔を夕日に照らされた彼女だった。
 
 
 
 
 
 何を言えばいいのかわからず、沈黙が降りる。
 
 近づくなと、拒絶された記憶は新しい。その言葉は未だに刃のように一妃の耳を、胸をえぐる。
 どうしてそうなるのか知らない。ただ、わかっているのは。
 
 あの時、自分が呟いた言葉。
 
 その腕を掴んで。
 それでも拒絶されて。
 
 体育祭のとき、去っていく背中を見たときにも感じた思い。
 
 ドアを開け、教室に入った位置で止まっている朝葉に、一妃は近づいていく。かすかに彼が戸惑っているような雰囲気を感じたが、この前のように拒絶のようなそれはない。
 
 背を向けることもない。去っていく様子も。
 
 目の前で、立ち止まる。見上げると、切れ長の黒い目には複雑な色が浮かんでいた。
 戸惑い、葛藤といったそれが。
 
「朝葉」
 
 ぴくりと手が動いたのを視界の隅に認める。
 
 何を言えばいいのか、何を言ったらいいのか。それすらも考えられず。
 ただ、願ったのは。
 
 去っていく背中。
 逸らされた視線。
 
 嫌いなら、嫌いでいい。
 
 あの時の、痛みを宿した目と痛みを耐えるような顔。
 
 あの時とは別の色を宿した黒い目と視線を合わせる。
 
「……傍にいてもいい?」
 
 自然に口に出ていた言葉。視線の先の黒が丸くなる。と、その目が緩んだ。同時に、痛ましいほどの感情が、氷が溶けるように、消えた。
 
 一妃は戸惑うよりも、その事実に先にほっとして、そっと微笑んだ。柔らかく嬉しそうに。この眼差しを、この存在を望んでいたのだと言うように。
 
 
 
 
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