第一話 強気な彼女と正体不明な男 #01

 

「うげっ」

 菅原千郷すがわらちさと はそれをみた瞬間に顔を思いっきり、これでもかとしかめた。

 大学の講義が終わり、バイトに行くまで時間があるためどこかで暇を潰そうと思っていた矢先、大学の門から少しいった道の脇に停まっている黒塗りの車。一見して、高級車だとわかるそれから降りてきた人物に、彼女は目をむいた。

 高い身長、茶色の髪に整った顔に浮かぶのは飄々とした笑み。きっちりとスーツを纏い、がっしりともやせているともいえない体躯に堂々とした雰囲気をかもし出している男は街中で十人の女性が見れば十人が振り返るほどの魅力を持っていた。
「よ、千郷」
 軽々しく名前を呼ばれ、普段なら噛み付く程の気の強さを持っている彼女だが、大学の門前で叫ぶわけにはいかないと顔をしかめるだけにとどめた。
「なんでいん…いるんですか?」
 千郷の心情をわかっているのだろう。憎らしいほどの晴れやかな、それでいて悪戯が成功した子供の表情で男は笑った。
「だから言っただろう?また会おうって」
 千郷はため息を吐きこの男と初めて会った日のこと、正しくはその出来事を頭の中で反芻させた。
 
 
 
 
 千郷はどこにでもいる大学一年生だ。これといって特徴はなく、あえて言うならば黒目がちの大きな目とその童顔が印象的だ。
 彼女はその日、なれてきたコンパニオンのバイトが入っていたために、恐らくこの先、一生足を運ぶことはないだろう、会場となる高級ホテルの宴会場でお酒の入ったグラスを運んでいた。
 淡い紫色の膝下から膝上まで斜めのラインのドレスに同色のカーディガン、髪を纏め上げメイクをしている彼女は、会場の中にいるほかのコンパニオンたちに比べれば地味だったが、酔っ払いのセクハラまがいのことをされないということであまり目立たないのは救いだった。

 だが、他のコンパニオンたちはそうではない。時として、酒の力を借りて彼女たちを外に誘う人間もいれば、少々強引な手を使う人間もいる。

 例えば今、視線の先にいる赤ら顔の中年男のように。

「困ります!」
「いいから。ね?ちょっと外で一緒に飲もうよ」
「困ります。あの、離してください!」
「仕事が終わるのは何時?それからでいいから、ほら、ね?」
 あからさまに嫌がっているコンパニオン―――千郷と同じくらいにバイトとして入った女の子―――綿部祐衣わたべゆいが泣きそうに顔をゆがめながら手を掴んで離さない男に抵抗している。

 夜のパーティー会場。プールと広い芝生を持った会場は、木立がありその影に行けば、会場の明かりも届かない。

 千郷がそれを見たのは偶然だった。そして、止めようと足を踏み出し耳に飛び込んだのは。
「なんだよ!こうやって男に媚を売るのが仕事だろう!?」
 逆上した男の耳障りな声。それが彼女の沸点を振り切った。

 ばしゃりと水がはねる音。驚愕しているのは祐衣だ。千郷は片手にもっていた空になったグラスをお盆に何事のなかったかのように乗せる。
 一方、ワインを突然掛けられ呆然としていた中年男はすぐさまその顔を先程よりも真っ赤にさせ、千郷を睨み付けた。
「何をする!?」
 逆上する男とは反対に千郷は目を細めた。
「何をする?失礼ですが。お客様、わたしどもの所属する派遣会社の方では外にコンパニオンを連れ出すのは禁止となっております。第一、ここはキャバクラでもクラブでもありませんし、わたしたちはホステスではありません。どうぞ、立派な社会人であるなら、節度をもってそれなりの対応をしてくださいませ」
「なにを…!?」
「ああ。それと、欲求不満ならそれなりのところへどうぞ。出口はあちらです」
 噛み付く男に千郷が止めとばかりにぴしゃりと言い放つと、男は体を震わせる。その顔には虚仮にされたという怒りと、小娘にいいように言われているという羞恥が混じっている。
 千郷は言ってやったぞといわんばかりに胸をはり、男を見る。一方、祐衣はオロオロと千郷と男を見ている。
「こ、この小娘!!」
 中年男の腕が振り上げられる。千郷は殴られると思いながらもぐっと奥歯を噛んで男を見据えながらくるべき痛みに耐えようとしたとき―――中年男の背後から出てきた手が男の腕を捕らえた。
「はい、ストップ」
 千郷は目を見開く。
 中年男の腕を捕らえているのは後ろに流した茶色の髪に整った顔立ちに甘い笑みを浮かべ、すらりとした整った体をもった若い男だった。十中八九、いい男と分類されるだろうということは異性に疎い千郷にもわかった。
「な、なにをする!?離せ!」
「いや、何をするのはそっちだろう?この場合、あんたの方が悪いと思うが」
 男は薄い笑みを浮かべたまま、掴まれた腕を振りほどこうとしている中年男の耳元に顔を寄せ、低く囁く。
 その時、離れた会場の明かりが男の目に反射し、鋭い光を過ぎらせる。同時に男の纏う雰囲気が冷えたものに変わったのを千郷は感じた。
 何を囁かれたのか、中年男はその赤ら顔を一瞬で蒼白にするとおたおたと逃げていった。
「大丈夫か?」
 声をかけられるまで呆然としていた千郷たちははっとして男を見る。そしてすぐさま頭を下げた。
「すみません!ありがとうございました!!」
「どういたしまして。それにしても…くっ」
 恐縮する千郷たちの耳に男の吹き出す声が聞こえる。顔を上げると、そこには可笑しいといわんばかりに目を細め、口元を押さえながらも肩を揺らしている男。
「あの…?」
 千郷が困ったように眉を寄せる。その彼女の様子に気付いたのか男が笑いを納めると千郷に向き直る。
「すげぇ、啖呵だなあと思ってね」
「あれは!」
「千郷ちゃん!!」
 かっと千郷の顔が赤くなる。噛み付くように声を上げた彼女の腕をとっさに祐衣が掴んで止める。それに男はさらに笑いを誘われたのか、面白そうに目を細めた。
「まあ、怪我がなくてなにより。ああ、そうだ。あんたこの後、暇か?」
「暇じゃない!」
 自分に向けて言われた言葉に、つい普段の口調で返してしまった千郷は慌てて片手で口を抑えるが、時はすでに遅し。
 再びくつくつと笑いだした男を悔しそうに顔を赤くしながら睨み付ける。
「助けていただいてありがとうございました!!では、失礼します!行こう!」
「う、うん。では、ありがとうございました」
 お盆を片手に勇み足で去っていく千郷と祐衣にひらひらと手を振りながら男は、愉快そうに笑い、上着から煙草に火をつけ呟いた。
 

「……千郷、ちゃんね。面白れーな」
 

 

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