第一話 強気な彼女と正体不明な男 #03

 

 数週間前の記憶を正確に思い出した千郷は、車の窓の流れる景色を見ながらため息をついた。

「ため息なんかついてどうかしたか?」
 からかいを含んだ声が隣から聞こえ、千郷はそちらを見やる。
 組んだ足の上に肘を付き、笑みを浮かべこちらを見ているのは、憎たらしいほどに世間一般でいわれる「いい男」だ。
「別に。ていうか、どこに行くんですか?」
「飯を食いにいく」
「は?」
「ああ、その前に買い物でもいくか?」
 千郷は唖然として相手を見る。
 この男、さっきから一体なんの話をしているんだろうか。
 困惑する千郷の表情を見て、男は笑う。
「今日はバイトだろう?何か食べておいたほうがいいんじゃないのか?」
「いや、まかないが出るし…ていうか、なんであんたがシフト知ってるんですか!?」
 一応、個人情報でしょう!?と目をむき、叫ぶ彼女に男の笑みが益々深まる。
「内緒」
「内緒じゃない!」
 どこか悪戯小僧のように茶目っ気を含んで言われても可愛らしくもなんともない。逆に、腹立たしいと感じるほどだ。
「降ろしてください」
「却下」
「これ誘拐ですよ!?犯罪なんですけど!?」
「静」
「は?」
 突然の言葉に千郷の勢いがそがれる。怪訝そうに男を見ると、男の視線は彼女を真っ直ぐに見ている。
 その視線の強さに鼓動がはねた。
「静だ。千郷」
「え、いや、その…」
 それは男の名前だと知っている。けれど、そんなに親しくもない相手を、しかも年上の男を呼んでいいのかと逡巡していた彼女の腰に静の腕が伸びる。
「うぎゃあっ!」
「色気がねーなぁ」
「あたしにそんなのを求めないでくれますか!?」
 そんなもん、あたしにあると思うのかこの男は!というか、そんな事を言っている場合じゃなくて。
「ち、近いんですけど!?」
 腰を引き寄せられ、千郷は真っ赤になる。その上、無駄にいい男の顔が至近距離にあるのだ。これで、異性に対する免疫があまりない彼女には許量オーバーもいいところだ。だが、そう言って反応する彼女の様子を楽しんでいる静には面白くて仕方がないことには変わりなく。
「静だ。呼べ。千郷」
 さらには顔を千郷の耳元へ近づけ、囁く始末。
「っ!」
 硬直した千郷の脳内はもはやショートする一歩手前。
 どうしてなんで、こんな目に。ていうか、近い近い近い、人に触りすぎでしょうがこのセクハラ男!とさんざんな悪態を付いていると。
「ひぎゃっ!!」
「いい匂いだな」
 首筋に感じたのは吐息。千郷は臨界点を突破し。
「わかった、わかったから!静さん!これでいいですよね!?」
 だから、離してー!!
 顔を赤く染め、羞恥と懇願を滲ませた、やけといっても過言でないな叫びに静は満足気に笑う。そして。
「却下」
 なんでだ!という千郷の心のツッコミが聞こえたのかどうか、彼はにこりと笑いながら、千郷を更に追い込むように宣言した。
「呼び捨てじゃなかったから、このままな。ああ、飯も付き合ってもらうぞ」
 どこの子供のわがままだと千郷が胸中で叫んだのは言うまでもない。
 
 
 
 
「いい加減に機嫌を直したらどうだ?」

 笑いながら目の前で食事をする静を千郷はぎろりと睨み付ける。

 先ほど、散々な目にあった彼女はいわれるがままに、静に抱き寄せられていたのだ。彼が腕を放したのは、車の運転席からの男の目的地についたという言葉。
 場所が車の中で、しかも他に人がいるということをすっぱりきっぱりと忘れていた彼女はそれだけで、羞恥に顔が上げられなかった。

 それもこれも目の前の男のせいなのだとやけになりながら、箸を動かす。そのやけ食いといっても過言でない彼女の食べっぷりを静は笑いながら見ている。

 彼女は怒っているようだが、睨み付けられようが何をしようが静には子供にしか見えない。年齢のせいもあるだろうが、千郷はすぐに感情が表にでる。食べている間もおいしければその顔が緩むのだ。
 本当にわかりやすい思っていると千郷が自分を見ていることに気付く。
「どうした?」
「え、あ、いや、その…」
 言いよどむ彼女の言葉を目で促す。
「こんなところに連れてきてもらっていいんですか?それに、あたしお金そんなにないし…」
 彼らがいるのは、和食の店だ。敷居はそこまで高くもないし低くもない。夕食にしては少し早い時間帯なせいもあり、客もまばらだ。
 彼らは奥の隠れ家のような座敷に対面で座って食事をしていた。
 彼女の言葉に静は一拍の後に吹き出した。それに驚いたのは千郷だ。
 千郷の人生の中でも高級に部類されるであろうお店に連れてきたのは静だが、このようなお店に入ったこともなければ、お金は基本割り勘といったような金銭感覚を持つ彼女は、どうしようかと悩んでいたのだ。
 それを言って、笑われるとは。
「そんなに可笑しいですか?」
 くつくつと喉の奥で笑い、肩を震わせている静を千郷は睨む。その表情も拗ねた子供のようだと静は笑いがら思う。
「悪い悪い。こっちが誘ったんだ。好きなだけ食えばいいさ」
「え?いや、でも」
 戸惑っている千郷を視界の端に収めながら、静はメニューを見て呟く。
「他に何かほしいもんはあるか?……ああ、デザートは季節のシャーベットか。食うか?」
「え!?」
「いらないのか?」
「いります!」

 甘いものは好きだ。が、即答して千郷はしまったと思い、またからかわれるかと身構えながら静を見て彼女は、軽く目を瞠った。そこにいたのはいつものようなからかいの混じった笑みではなく、緩やかに目を細め微笑する男だった。
 

←#02 TOP #04→

inserted by FC2 system

inserted by FC2 system