第一話 強気な彼女と正体不明な男 #05

 

 ゆるりと空気が動いた。
 夜の街を一望できるホテルの一室。
 電気が灯されていなくとも、眠らない街の明かりがあるからか、部屋は暗くなかった。
 喧騒と遮断された静寂だけが漂う部屋の中で、ゆったりと椅子に座っている男は煙をくゆらせる。
 すると部屋の扉がノックされ、男と一緒に部屋に入り、直立不動の体勢をとっていた二人の男のうち、一人がすばやく動き扉の外にいる人間を確認して扉を開ける。
 入ってきたのは、涼やかな目元に柔和な笑みを浮かべた、一見、優男としか見ない人物。どこかの会社のエリートサラリーマンのようにしか見えない。
 彼の身にまとっている服が仕立てのいい黒いスーツでなければの話だが。
「終わったか?」
 聞いたのは煙草をくゆらせている男。
 まとう空気は静寂そのもの、暗闇そのものだったが、その身から出るどこか荒んだ緊張をはらんだ威圧感は隠せない。
「ええ、問題なく」
「そうか」
 椅子に腰掛けている男が煙草を灰皿に押し付ける。優男は部屋の奥にある扉にちらりと視線をやり、男を見た。
 その視線の意味を正しく理解している男は、淡々と告げる。その声音にはどこか案じる色があるのを優男は感じ取った。
「まだ、だ」
「そうですか。では、わたしはこれで。ああ、あと着替えです」
 頭を下げる優男に男は片眉を上げた。そんな彼の反応に優男はかすかに苦笑した。
「泊まるのでしょう?」
「当たり前だ。…ああ、お前たちもいい。帰れ」
 そう扉の傍に直立不動の黒スーツ、ついでに言うと強面の屈強な男二人に声をかけるとその二人は頭を下げ、部屋を出て行く。
 彼らに続いて扉を出ようとしていた優男は、肩越しに自分の主である男を振り返った。
「あなたが、あそこまで焦るのは下の連中には見せれませんね」
 揶揄を含んだ柔和な笑みと声に男の目が細まる。それだけで、部屋の空気が一度も二度も下がった。
「さっさと行け」
 男の声にまじった苛立ちに優男は肩を軽くすくめ部屋を出て行った。扉の閉まる音の後には静寂しなかない。
 椅子の肘掛に肘を付き、その手にあごを乗せていた男はおもむろに部屋の奥にある扉を見ると腰を上げた。
 音を立てないように扉を開け、部屋に入る。そこには大きな街を一望できる窓と、一つのキングサイズのベッド。
 男はほんの少しの盛り上がりを見せているベッドに近づくと、その端に腰を下ろした。


 ベッドの上に眠るのは一人の女。彼女の頬に男が手を伸ばす。いたわるように優しく触れると女の眉がかすかによって、くすぐったいのか振り払うように寝返りをうつ。
 あどけない寝顔とあいまって、ひどく子供じみた仕草に男が喉の奥で静かに笑う。
 そして、彼女の頭をなで、髪の毛を手ですくいそのまま口元に持っていき唇を落す。男の顔には、先ほど優男たちと対峙していたときとは正反対の穏やかな笑みを浮かんでいた。

 

 

 優しく撫でられる。
 その仕草は、昔、兄がよくしてくれたものだった。仕事で家から出るとき、見上げるといつも優しい笑顔を浮かべて撫でてくれていた。
 その仕草が、笑顔が好きだった。
 頬を伝うのはかすかな温もり。労わるような、大切なものに触れるようなその感触に、このままでいたくなる。
 髪の毛をすかれる感触に、そのまま身を任せていたくなる。
 そんな気持ちのいい、覚醒と夢の狭間に漂っている思考を吹き飛ばしたのは、聞き捨てならない言葉だった。
「起きないなら襲うぞ?」
 考えるよりも前に体が動いた。ばちっと目を覚ますと同時に、飛び起きるという表現のまま、彼女はかけてあった布団を跳ね除け身を起こす。


 視界に一番、最初に映ったのは見覚えのある顔。
 どうしてここにこの人がいるんだろうかと思いながら、周囲を見回して彼女は、千郷は絶句した。


 朝にしては明るい日差しが照らしているのは高層ビル群。それを見る事のできる大きな窓に、その前にあるテーブルと椅子。そして、自分の寝ていたベッド。モノトーンの落ち着いた部屋のインテリア。
 そして、笑みを浮かべてこちらを見る男。


「……誘拐?」


 思わず、状況の把握やなぜこんなところにいるのかとか、その前にここはどこだとかといった思考がどこかに吹き飛んだ千郷はそう呟いていた。

 

 

「復活したみたいだな」
「お陰様で」
 先程まで寝ていた寝室の奥にあるバスルームから出てきた千郷は、リビングらしき場所でくつろいでいる男―――天城静につっけんどんに返事をする。


 朝起きて、見知らぬ場所にいて、でも見知った相手がいてわけがわからない千郷に静はとりあえず、気分がいいなら風呂に入ってこいといって、未だ困惑している彼女をバスルームに押し込んだのだ。
 ただでさえ、高そうないわゆる高級ホテルの一室のバスルーム。そこで彼女は、さらに困惑しながらも、なぜ自分がここに!?と戸惑いながら、恐る恐る備え付けのボディーソープやらを使い、いちいち驚いていたのだが、それも風呂から出るときは、すでに開き直っていた。


 静の座っている正面の二人がけのソファに腰を降ろす。その弾力や柔らかさに驚愕しながらも、部屋の中を見渡す。
「珍しいか?」
 低く笑いながら聞いてくる静に千郷は自分が落ち着きなく子供のように見ていたことに気づいて、顔を赤くした。
「そりゃあ、こんなところに来た事とかないですし」
 あたしはセレブじゃなんだってのと思いながら返事を返すと目の前の男はさらりととんでもないことを口にした。
「じゃあ、また連れてきてやるさ」
「いらんわ!!」
 こんな豪華で高級としかいいようのない所にそう、ほいほい連れてこられたら堪らない。主に自分の精神が。
 千郷が本気でそう思っているとするとくすくすと笑い声が聞こえてきて、千郷は体ごと振り返る。


 視線の先には部屋の扉の前に黒いスーツを着た優男としか形容できない、どこかの会社のエリートサラリーマンを連想させる風貌の男が立っていた。
 

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