「牧」
男の名前を呼んだのは静だ。
「失礼。大変、楽しそうでしたので。お食事をお持ちしました」
顔をかすかにしかめ、睨む静の視線をさらりと流し、牧と呼ばれた男は柔和な笑顔を浮かべる。
一方、千郷はさっきの会話のどこが楽しそうに見えたんだと内心で突っ込んでいた。
牧と呼ばれた男がソファから離れたテーブルに食事の乗ったワゴンを押し、食事の準備をしる。その一連のそつのない、流れるような動作を見ながら千郷は誰だろうか、静の知り合いみたいだけれどと考えていると牧の視線が千郷に向けられる。
その視線に一瞬、鋭いものを感じた彼女はびくんと肩を跳ね上げた。
「な、なんですか?」
鼓動がはねるのをなだめながら、上ずる声を無視して問いかけると、牧はどこか困ったように苦笑した。
「いえ、そんなに見られると照れます」
「は?……あ、え、ああ!すみません!!」
何を言われたのか分らず、呆けたが、すぐさま頭を下げるとくすくすと笑い声が聞こえてきて、そちらを睨んだ。
「なに笑っているんですか?」
笑っているのは言うまでもなく、いつの間にか千郷の隣に座っている男だ。
男は器用に片眉を上げと。
「いや、別に。気にするな」
別にじゃないだろうがこのヤロウ。絶対、失礼なこと考えていたなこいつ。と、うそぶく相手に千郷がさらに眉間に皺を寄せて睨む。すると男―――天城静はあろうことか千郷に近づき、その皺のよった眉間に唇を落し、飄々と。
「皺が固定するぞ?」
瞬間。
「…………っ!?なにするんのよ!?このセクハラ誘拐犯――――――!!」
室内に、乾いた音と千郷の悲鳴が響き渡った。
頬の火照りを感じながらも、食後に入れてもらった紅茶を喉に通す。味がどうとかというのはわからないが、やはりおいしいと思うのはそれなりに上等なものだからなのだろうか。
千郷はふうと息を吐き、少し不機嫌な目の前の男を見る。
男の右側の頬には軽く『紅葉』型の赤い跡が付いている。それを見るたびに千郷の良心がちくちくと痛んだ。同時に、
「おかわりはどうですか?……ああ、自己紹介が遅れました。私はこちらで拗ねている天城静の部下に当たります、
「あ、いえ、お構いなく」
丁寧に、しかも年上の男の人に頭を下げられ千郷は慌てて、椅子から立ち上がり頭を下げた。横から不機嫌な声が突っ込んできたのも無視して。
「おい。誰が拗ねているだって?」
「菅原千郷といいます。ええと…あの、天城さんの…部下の方ですか?」
「菅原さん、頭を上げてください。そですね。実質、秘書のようなことをしています」
秘書!?と目を剥き、戸惑っている千郷の耳朶を低い声が打った。
「いい度胸だ」
深く、低く、太い―――声。
それが誰のものかと認識する前に、千郷の足が中に浮く。かすかに鼻を掠めたのは甘くてしつこくない香り。
え?と思ったときにはすでに遅かった。
高くなった視線の先には、面白いものをみるかのような深い笑みを浮かべた牧。お腹と太もも辺りに感じるのは圧迫感。
同時に、感じる自分以外の体温。
すぐさま顔に、体中に熱が登る。
「ぎゃー!!降ろして!!なんで、持ち上げてるんですか!?」
「無視するからだろ?」
「そんなんで!?」
会話をしながらも静の足取りは普段と変わらない。そして、どこに行くのかと思い首を捻るとその先には寝室の扉。
やばいとざっと血の気が引く音を聞いた千郷は未だに事の成り行きを面白そうに見ている牧に助けを求めた。
「ま、牧さん!」
「はい?」
はい?じゃない!!
「助けてください!!」
必死という言葉そのままの千郷の声に牧は、
「社長、午後の会議の前にお迎えに上がります」
「ああ」
社長ってだれが!?ていうか、この人、今無視した!?普通、助けるだろ!?と目を剥いているうちに、千郷は寝室の方に連れ去られた。
ばすと空気の抜ける音と共に背中への衝撃で千郷は息を詰まらせる。が、すぐさま体を起こそうとして―――それは叶わなかった。
自分に乗りかかる一人の男。口は笑っているが、目は笑っていない。
これはヤバイ。ヤバイぞ。マジで。ていうか、牧さん鬼だな!綺麗な顔をしておいて。
千郷が顔を引きつらせながら、背中を冷や汗が流れ落ちるのを感じていると、男、静の指の背が彼女の頬を撫でた。その感覚に背筋をぞくりと恐怖以外のものが走る。思わず身を震わせた千郷に静がいつもとは違う鋭さを宿した目を細め―――笑う。
その笑みにこの空気に負けてなるものか、ここで負けたら女が廃る!というか、いろんなもんがヤバイ。主に自分の貞操が!と千郷は頬を撫でる手に流されないようにそれをがしっと掴み、静を見据えた。
「聞きたいことがあるんですけど!」
「ん?」
「どうして、あたしはここにいるんでしょう!?」
「俺が連れてきたから」
しれっと答える静。
「だから、どうしてって…!」
「覚えてないのか?」
静が千郷から離れ、彼女は記憶を必死でたくり寄せる。
大学で気分が悪い上に体がだるくて倒れかけて、それでも頑張って校門を出て、それで―――。
「思い出したか?それで気を失ったお前をここに連れてきた」
「……自転車」
「あ?」
ぽつりとした小さな呟きに静が怪訝な顔をする。千郷は顔を俯けたまま重ねて問いかけた。
「だから、自転車の人は?」
「ああ、無事だ」
「よかった」
「それよりも、お前が危なかった」
顔を上げると静の真剣な眼差しが自分を見下ろしていた。その顔に体の内側がざわつく。
そんな彼女をみながら静がベッドの端に座る千郷の前に膝をつくとそのまま柔らかく抱き寄せられる。
「怪我がなくてよかった」
肩に引き寄せられたまま、囁かれた言葉に確かに安堵の色があって。千郷は温かい自分を抱き寄せた腕と甘くて柔らかい香りに誘われるまま小さく呟いた。
「………ありがとう」