哀しい望み 40


 

 
 アルザスと別れたのは、夕暮れ時だった。
 白刃の横を行きかう人々は、皆、家路を急ぐように早足で歩いていく。彼女はそんな中でゆっくりと歩いていた。
 まるで散歩をしているかのように。
 いつもなら、いつものあの場所にいたのなら、この時間帯はまだ遊んでいる時間だった。特に高校生になってからは。
 周りには雑踏が絶えずあって、空を覆い尽くすようなビルが聳え立っていた。
 
 空を見上げる。
 そこにはどこまでも広い空と、三つの色違いで大きさも違う月が薄っすらとその姿を現し始めている。
 
 本当に。
 
 あの時、思ったのだ。
 アルザスから話を聞いたとき。
 
 ああ、と。
 本当に―――自分は。
 
 やがて、視界の広い開けた場所に出た。
 見回すと、どうやら街の中心ではなく別の広場らしき、小さな公園に出たらしい。そこには子供の姿ももう見えず、遊具らしきものがそこにあるだけだった。
 白刃は近くにあったブランコへと腰かける。
 
「ねぇ、セイ」
 
 肩に大人しく乗っている使い魔に声をかけると応じるようにその大きな目が彼女を見た。
 
「ここは、遠い場所なんだね。あの場所からは」
 
 本当に遠い。
 遠い場所に来てしまった。
 
 セイは首をかわいらしく傾げる。やがて、主人を慰めるように鼻先を白刃の頬へと摺り寄せる。それをくすぐったそうにしながら彼女は白竜の体を撫でた。
 お礼を言わない代わりだとでも言うように。
 
 
 
 ***
 
 
 
 
 彼女たちは知らない。
 公園の入口の方で、家の影に赤い髪の青年がいたことに。
 彼は彼の友人とも呼べる男に話を聞いてから、宿を出てきたのだ。
 
 その宿での会話を思い出す。
 
「あの子」
 
 突然、部屋を訪ねてきたアルザスは口を開く。
 オーディンは剣を磨いていた手を止め、窓辺にたたずむ彼を見やる。
 
「バカみたいにお人好しだな」
「そのお人好しに殴られたのはどこの誰だ」
 
 夕刻前に宿の部屋を訪ねてきたアルザスにことの顛末を聞いて、オーディンはなんともいえない顔をした。
 正確には何でそうなるといった理解しがたいものがあったからなのだが。
 本当にあの少女はよくわからない。それがオーディンの正直な感想だった。
 
「オーディン」
 
 ふいにアルザスの声音が真剣みを帯びる。
 空色の目にはいつものそれではなく王の【狗】のそれ。
 それを彼は真っ向から見返した。
 
「アレはなんだ?」
 
 遠まわしな言い方にオーディンは眉根を寄せる。
 
 アルザスは白刃を、彼女の存在を懸念している。
 あの密猟の捕縛の際にみせた魔力を感じてそう思っているのだろう。
 魔眼を持つオーディンも分かっている。
 彼女の魔力、力は異常などに強い。まるで。
 
「アレはまるで、魔…」
 
 オーディンが剣を鞘に戻した硬質な音がその続きを遮る。
 
「ただのお人好しなバカだ」
「オーディン」
 
 とがめるようにアルザスの声が背を向け外套を羽織った彼の背にぶつかる。
 
「アルザス」
 
 低い呼びかけ。彼の体から発せられるのは空気が緊張するほどの威圧感。
 
「あれは俺の契約者だ」
 
 紫紺と空の双眸が交わる。折れたのは空色だった。
 
「わかった。…わかったよ。今はそれでいいさ。あーあ、やってらんねぇ」
「アルザス」
「なんだよ」
「そのバカはどうした」
「少し散歩するってさ」
 
 そして彼は宿を出てきたのだ。彼女がどうして一人でいるのか、大体察しがついたから。
 あの強すぎる魔力。
 アルザスが懸念するのは分かる。それでも。
 
「…あれを見てもそういうのか」
 
 紫紺の双眸が写していたのは。
 
 夕暮れに染まる公園で一人、静かにそこにいる少女。
 それに寄り添うようにいる白竜。
 
 目を細める。
 
 
 彼女はよく笑って、怒って。
 お人好しで警戒心がなくて、どこにでもいる少女だ。
 
 
 そして。
 
 
 オーディンはため息を吐いて、足を踏み出す。
 
 その小さな背中を見る。
 置いていかれた子供のような背中を見せる彼女に、いつもの説教をするために。
 
「一人で出歩くなといわなかったか」
 
 びくりと肩が震えて振り返ったそこに、いつものように、悪戯が見つかった子供のような、それでいて安心したような色を漆黒の目を見た。

  


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